利長の出軍に決するや、孫四郎利政は弟修理知好をしてその居城七尾を留守せしめ、金澤に來りて軍事を議せり。利長その北進するに先だち、後顧の憂を絶たんが爲に、使を小松城の丹羽加賀守長重に遣はし、二人が固より私怨あるにあらざるを以て、我が軍の行動を妨ぐるなからんことを求めしに、長重一たび之を諾したりしが、その質を代へんとするに及びて和議遂に破綻に歸せり。利長乃ち兵力を以て之を屈服せしめんとし、高畠定吉・奧村永福・青山吉次を金澤城の守將となし、長連龍・その子好運・奧村榮明・太田長知・山崎長徳・横山長知・高山長房・篠原一孝を先鋒とし、利政と共に本隊を率ゐて、七月二十六日金澤を發せり。既にして石川郡福富村に至りて軍議を定め、小松城を陷るゝに先だちて、その與黨たる大聖寺城主山口玄蕃允宗永を屠るの要ありとなし、二十七日利長の進みて能美郡三堂山に次するや、岡島一吉・不破勝光をこの地に留め、又前田良繼・寺西秀澄を千代に屯せしめ、以て小松軍牽制の任に當らしめき。 八月朔利長三堂山を發して西進し、吉竹・本江・蓮代寺・三谷を經て木場潟の東を過ぎしに、丹羽軍の斥候の偵知する所となる。長重の將坂井與右衞門直勝之を聞き、櫻井源太の兵を湖上に放ち、古田五郎兵衞の隊を淺井口に出しゝに、櫻井・古田は水陸二道より進みて前田軍の進路を擾さんと欲し、中軍の既に去りて輜重の來るを望み直に攻撃を加へしが、輜重隊將富田重政は横山長知・山崎長徳等の援を得て之を撃退せり。利政等この機に乘じて敵を追撃せんとせしに、利長は之を止め、進みて江沼郡松山に次し、而して利政は加茂野に陣せり。是の日上國に在りては西軍、鳥居元忠の留守する伏見城を陷る。翌二日利長尚松山に在り、令を定めて之を軍中に布けり。 丹羽長重畫像子爵丹羽長徳氏藏 丹羽長重画像