馬廻置目 一、武者押之次第、組頭之馬之次々へ乘可申候。自然私の用事有之候などゝ申、跡先へ乘一所に無之者可爲曲言事。 一、陣取小屋場、組頭一所に可有之事。 一、右頭番替々一組先へ、一日替に押可申事。 一、普請並番不仕者有之者、其普請所を明置、交名を記し可申事。 一、組頭へも不及理、其組をかへ候義可爲曲言事。 右之趣若相背、猥之作法仕者有之候者、誰々に不寄、組頭として不及申上可成敗、贔負偏頗仕間敷候旨、組頭として誓詞を上可申者也。 慶長五年八月二日利長在判 〔軍中雜抄〕 同日利長は、九里九郎兵衞を使者として大聖寺城に至らしめ、城主山口宗永に諭して降を容れしめんとせしが、宗永は之に從はざりき。因りて利長は之を屠らんと欲し、三日黎明を以て松山を發す。利政前軍に將とし、長連龍はその先鋒となり、而して山崎長徳は中軍の先鋒となる。宗永の子に右京亮修弘あり、諸將を率ゐて城を出で、南郷に至り先づ矢丸を發して戰を挑む。時に連龍は作見に在りしが、衆を勵まして敵を撃ちしに、修弘之を防がんとせしかば、利政は進みで修弘を追ひ、直に城の大手鯰橋に薄れり。既にして修弘の從士二十餘人踵を返し、長鎗を振ひて能く戰ひ、兩軍互に死傷を生ぜしが、前田氏の中軍の側面より來りて放銃するに及び、亦支持すること能はずして城門より入れり。是に於いて山崎長徳等、城南の鐘ヶ丸に攻撃を加へんとし、利長はその東南なる石堂山に陣せり。利長時に鯰尾の兜を戴く。鉢の長さ三尺二寸、楮紙を張りて製し、髹して銀箔を貼す。是を以て最も能く人目を惹けり。敵直にその主將なるを察し、城壘の狹間より亂發亂射せしも、その兜を貫きてその身に中らず。前田軍勢に乘じて隗隍に迫り、山田勘六先登して死せり。 前田肥前守利長は、大神君(家康)の御味方として、大聖寺の城を攻。然るに大聖寺の本丸種ヶ丸と云より二町程隔て、石堂山と云山あり、利長此山に本陣を居たり。時に山口右京、兼て町間を積て、種ヶ丸の櫓より認(ネラ)ひ濟して鐵炮を放ちけるが、利長著せられたりし鯰の尾の冑に當て、其身は恙なし。右京、利長の陣動搖せざるを見て打損ぜしと思ひ、先よりも亦藥を強く入て放けるに、利長の側に居たりし扈從を一人立所に打殺せり。今其墳墓猶種ヶ丸に存せり。利長の陣いまだ動搖せざりしかば、右京いらつて放ちければ、ふす〱と立消して當らざれば、最早運命是迄也と。右京種ヶ丸の櫓を飛下り討て出しが、(下略) 〔雜話雜記〕 ○ 瑞龍院(利長)樣御代、御近習に山田勘六と申者、數年相勤罷在候處、或時勘六を頻に被爲召候。折節行水可仕ため私宅へ參り不在合候旨申上候得者、言(コト)之外御機嫌損申候。其以後罷出候へば、以の外御しかり被遊、御杖に而被爲打候處、其あたり候處疵付血出申候故、御近習の面々、立ませ〱と申候而退出仕。其後御勘氣と申被仰出は無之候へども引籠居申候。其後大聖寺陣之處、途中に而御先え人數五六十に而罷出候もの有之、何者やらんと各申候處、即勘六にて候故、何も勘六出申はと存候。瑞龍院樣も御心付かせられ候由。然所大聖寺かねが丸の一番乘仕候へば、城中より大身の鎗にて突落申候。家來のものどもいたはり、御旗本へ引入候處、いまだ存命の内にて、瑞龍公御前へ被召出、御懇の御諚に而御勘氣御免除の由。其時深手故療治不相叶相果申候。右の趣に付跡目等無相違被仰付候由。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕 大聖寺城址(右)在江沼郡大聖寺町 大聖寺城址