次いで大音主馬貞尊は、正門外の廂に攀ぢて侵入せしかば、之に追隨して命を損するもの多かりき。この時蓆の指物を負ひたる壯士、將に堞を超えんとして奮鬪するの状殊に人目を驚かすものあり。利長人を遣りてその姓名を問はしむるに、長連龍の家臣富田帶刀なり。連龍麾下の兵之が爲に激勵せられ、先を爭ひて進み、鐘ヶ丸の敵を驅逐して牙城に遁れしむ。城主宗永、前田軍の猛威當るべからざるを見、自ら麾を執りて指揮せしも、敗餘の羸卒健鬪すること能はず、本丸も亦遂に陷落し、山崎長徳の家臣木崎長左衞門が修弘を馘するや、宗永も亦自刄し、將卒之に殉ずるもの三百餘人に及べり。利長乃ち四井主馬に命じて火を縱たしめ、次いで城中に入りて敵の首級を檢するに五百四十四顆を算せり。因りて書を裁して、戰捷を金澤の留守高畠定吉に報ず。後利長は假に篠原一孝を本丸に、加藤宗兵衞・有賀直政を二ノ丸に置きて守らしめ、士卒をして敢へて市民を侵すことなからしめき。 爲見廻書状令披見候。今日[三日]に大勝(聖)寺之城へ取懸、即時に攻入候而、山口父子を始、壹人も不殘討取、大慶不過之候。何茂手柄共仕候事不一方候。猶追々可申遣候。恐々謹言。 八月三日(慶長五年)利長在判 高畠石見守殿 〔薫墨集〕 ○ 町家(大聖寺)の米屋三郎右衞門が家は久敷家也。至て古き事不知、山口玄蕃城主の比より、やはり酒屋にてありし。瑞龍公大聖寺御責の時、落城して中間(チウゲン)ども米屋にて酒買ひ給べける内に、一人ちろりを盜みたる者有。誰彼と穿鑿の内顯れたれば、其者を米屋の酒店にて、其場を去らず刎首になさる。軍中は嚴然たるものなりと、米屋に申傳へたるよし。 〔秘要雜集〕