初め前田氏の軍大擧して大聖寺に至らんとするや、宗永は急を越前北庄の青木秀以[初名一矩]に報じて來援を請ひしも、秀以は期に後れて之に應ずること能はず。小松の丹羽長重も亦後卷して敷地に來りしが、大聖寺城の既に陷落したるを聞きて退却し、四日更に兵を前田氏の領内に進め、火を本吉の倉廩に放ちて劫掠せり。而して利長に在りては五日大聖寺を發し、越前の細呂木に出で、先づ使を北庄に遣はして秀以の降服を促し、次いで自ら金津に入り、先鋒を五本・長崎に進めしが、使者歸り來りて秀以の異心を抱かざるを報じ、丸岡の城主青木伊賀守忠元も亦同じく成を請ひしを以て、同日急に金津を發して軍を大聖寺に收めたりき。 利長がこの異常なる班軍を決行したる理由の、果して那邊にありしかは、古來不可解の問題とせられ、前人爲に説を立つる者甚だ多し。而してその最も普通に行はるゝものは、この時利長の臣中川光重[宗半]が京より歸國せんとせしに、西軍に黨したる大谷吉繼は光重を敦賀に捕へ、上國の軍將に海路金澤を侵さんとすとの手書を認めしめて利長に送りしに、利長はその筆跡光重のものに疑なきを以て、これを事實なりと信じ、直に馬を封境に納るゝに至りしなりといふに在りて、光重の手書として傳へらるゝものは即ち左の如し。 上方へ御出馬の由承り、私儀も御供可仕と大阪より罷下り候處に、西國勢石田治部少輔が人數を引率し、敦賀の浦より船へ乘、加州宮腰へ打上り、金澤之城を乘捕候はんと人數を催し候間、御引取御用心可被成候。爲其飛脚を以奉及注進候。恐惶謹言。 八月十三日中川武藏(光重) 横山城州(畏知) 御披露 〔三壺聞書〕