然れども光重が、大谷吉繼の強迫によりて利長に手書を上りたりとのことは、前人皆之に信を措かず。越登賀三州志に有澤永貞の説を引きて、光重は當時上國に在りしことなく、現に利長の軍中に從ひしのみならず、吉繼も亦敦賀に在らざりしなりといひ、又有澤武貞の論にも、この光重の書といふものを見るに、當時横山長知の尚大膳と稱したるを城州と記したるもの最も怪しむべく、且つ此の際光重にして若し吉繼の爲に強要せられて僞書を利長に送り、以てその計畫を誤らしめたるの事實ありしならんには、焉んぞその子孫長く藩臣として榮職を保つを得んやといへり。思ふにこの文、『西國勢石田治部少輔が人數を引率し』といへる筆路極めて晦澁なるのみならず、『加州宮腰へ打上り』とあるも加州人としての口調にあらず。されば光重が書を送りたりとの説は全然採るべきにあらず。上述の外、利長の班軍を解釋する第二説に、利長に手書を與へたるものを、中川武藏光重にあらずして戸田武藏守重政なりとし、重政が利長と親眤なりしを以て、伏見城既に陷落し、家康の西上未だ知るべからざるが故に、卿獨軍を進むるもその功なからんと告げしかば、利長は之に從ひて納馬せしなりとするものあり。又第三説に、利長の金津に至りし時丹羽長重の兵が領内本吉に放火したるを聞き、爲に歸陣するに至りしなりとするものあり。此等の諸説、皆之を證明すべき資料なく、單に揣摩臆測に過ぎざるなり。