既にして利長は進みで三堂山に陣せしに、長重の老臣坂井與右衞門・江口三郎右衞門・大谷與兵衞等、命を受けて利長の營に至り和を請へり。利長之を延見して曰く、和議既に成る、宜しく舊怨を一洗せざるべからず。是を以て我は舍弟猿千代[利常]を出して質たらしめんとす。卿等歸りて之を宰相に告げよと。乃ち三使を饗し、各賜ふに太刀を以てせり。次いで十八日、利長の小松に入るや、長重之を懸橋口に迎へ、後誓書を交換し、利長は約を踐みて猿千代を小松城に送りしに、長重之に報ずるに弟左近長紹を以てし、與右衞門・三郎右衞門・與兵衞及び丹羽九郎兵衞も亦各質を出して、長紹と共に金澤に赴かしめき。利長乃ち書を金澤城の留守高畠定吉に與へ、丹羽氏との媾和已に成れるを以て、明日を以て大聖寺に至るべく、南越の地亦敵とするに足るものなきを以て、直に江州に入るべきを告げたりき。焉んぞ知らん、乾坤一擲の大快戰は、既に十五日を以て關ヶ原に於いて決行せられ、この時東西の勝敗全く定れる後にありしことを。 尚々、るすの事たのみ入候。 わざと申入候。小松表すみ候。明日大しよふ寺までぢんがへ申候。左候時は越前もきをい有まじく候間、すぐにきの本へ出可申候也。跡の事たのみ入候。かはる事追而可申入候。さし。 もひ(羽柴備前守) 九月十八日(慶長五年)利長在判 石見守(高畠定吉)殿 〔北徴遺文〕 ○ 或時御咄(利常)の時分、左門(品川)・久越(中村)え御意被成候は、身共幼少の時、小松丹羽五郎左衞門え人質に參候而居申候由被仰候得ば、久越申候は、御前樣杯人質に御越被遊候儀に御座候哉と申上候處に、五郎左衞門は其時分此方の敵に而候。五郎左も親程にはなく候得共、是も唯者に而者なく候。信長の時分は大名に候得共、關ヶ原の時節は加州の内にて十二萬石取被申、大名の筋にて候故、其時分侍四百計所持被仕候。十二萬石にて四百の侍所持申儀は不成事に候。第一小松の城宜敷候故、中々右樣には成兼候に付而、和睦して人質替申候。其時我等儀小松へ參、又あなたよりも人質を被指越候。其頃我等幼少に候故、五郎左衞門特の外かはゆがられ、梨の皮を自身取候而贈候。我等の顏をつく〲と見、譽被申、御仕合能可有御座候、御目の内宜と被申候。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕