十九日利長、丹羽長重を先驅たらしめて越前の舟橋に抵り、北庄の青木秀以と和を媾ぜしが、長連龍に命じて暫くその行動を監視せしめ、木目嶺を踰ゆるに及びて之を撤せり。利長が關ヶ原の決戰に就きて聞き得たりしもの、その何れの日なりしかを詳かにせずといへども、固よりこの間に在るべく、而して家康が公式に之を通知したるはその大津に入りたる後にして、彼が西軍に對して大捷したることを告げ、尚一撃して大阪城を蹂躙せんと欲すといへども、故太閤嗣君の在る所なるを以て之を敢へてせずといひ、その書は二十二日に認められたるなり。次いで利長も亦大津に入り、家康に謁して著陣の期に後れたる所以を陳謝し、而して家康は備にその勞を犒へり。、諸書に利長・家康二人の會見を二十日にありとするものあれども、家康が二十二日を以て書翰を認めたるは、利長の未だ到著せざることを示すものなるが故に、之を信じ得べからず。越登賀三州志に、その會見を二十二日なりとするもの或は從ふべく、假令同日なりとも家康の書信が認められたる後に在らざるべからざるなり。越えて二十六日利長は京師に達し、書を在能登の三輪藤兵衞に與へて、東軍の勝利を報じ、二十八日には大阪に入れり。 御書中之通得其意候。先書如申入候悉討果、一篇申付候間、可被成御滿足与令推察候。大阪も一兩日中相濟可申候。即乘懸雖可責崩後、秀頼樣御座所に而候間致遠慮候。恐々謹言。 九月廿二日(慶長五年)家康在判 加賀中納言(利長)殿 〔北徴遺文〕 ○ 爲見廻書状、殊に鹽雁[貳]到來令祝著候。將又先書に申遣しほ千表(俵)・すみ貳千、宮腰迄相屆由尤候。寔に被入念を、早々相屆候事令祝著候。次濃州表事早速相濟、天下太平か樣之目出度事無之候。治少(石田)・安國寺・長束・小西生捕申候。こゝち能事不及是非にも候。尚長兵衞かたより可申候也。 九月廿六日(慶長五年)利長在判 三輪藤兵衞殿 〔前田家文書〕