先に利長の大津に至りしとき、丹羽長重も亦之に隨へり。利長乃ち長重の爲に領土の安堵を請はんと欲し、その謁を家康に求めしに、家康は明日相見えんことを約し、而して遂に約を果さゞりき。丹羽氏年譜によれば、この際『長重上意に逆らひ奉るの事ありて謁し奉ること能はず。』といひ、その事件の内容を詳知すること能はずといへども、畢竟家康の常套手段に陷れられたるものにして、深く之を穿鑿するの要を見ず。長重乃ち潛かに上洛して大徳寺に入り、次いで鳥羽に住みしが、六年二月秀忠の内旨を受けて江戸に至り、高輪泉岳寺中に蟄居す。左右の士十三人、皆小松より隨從せるなり。後同八年初めて赦されて、常陸國古渡に一萬石を受く。 神祖・台徳院殿上方にはせのぼらせ給ふと聞て、利長もいそぎのぼらでは叶ふべからずとおもひ、長重と中なほりし、人質をとりかはし、利長はいそぎ立て、近江の國にて神祖に拜謁す。關原軍經ての後、諸將の功罪を糺明ありしに、長重陳じけれど、重き罪にも行はるべしと聞えたり。時に利長この事を聞、かくては吾こそ長重をたばかつて誅せしめしなど人の評論うけん事、弓矢とつての耻辱ならめとおもひ、かれが罪御免あらんことをしば〱なげき申せしかば、遂に聞召ひらかれしかど、加賀の國をば既に利長にたまはりしゆゑに、長重は所領失て江戸にまゐり、芝浦の邊に籠居して五郎左衞門と稱したり。台徳院殿むかしより御親しくわたらせたまへば、ちかくめして御談話の相手となされ、八年十一月常陸國古渡の庄一萬石たまはり、大阪前後の戰に敵の首十四切て奉り、元和五年又一萬石くはへられ、八年正月十一日陸奧國棚倉にて三萬石くはへられ、五萬石になされ、いまの御代將軍(家光)宣下のとき參議に還任し、寛永四年二月十日いま(白川)の城たまはり十萬石を領し、ことし(寛永十四年)閏三月六日六十七歳にて終りをとりしとぞ。 〔徳川實紀〕 ○ 泉岳寺中に幽居の内、隨逐の家臣左の通。 大谷與兵衞允秀小松十二萬石の時五千石 丹羽掃部右政小松之時三千石 丹羽九兵衞秀重長重之伯父、小松之時知行五千石 上野左兵衞時勝小松之時知行九百石 成田彌左衞門正成小松之時知行八百石 丹羽左近長紹長重之弟、小松之時知行五百石 丹羽五郎右衞門長清小松之時知行五百石 小澤次郎右衞門守隣小松之時知行四百石 大谷右馬之助秀成小松之時知行三百石 種橋宗兵衞清章小松之時知行二百七拾石 坂井大學相有小松之時知行二百三拾石 長谷川瀬兵衞當行小松之時知行二百三拾石 關八右衞門□忠小松之時無足 〆拾三人各精勤之譯有之、右之通被下候。 〔芝泉岳寺古記、丹羽家傳〕