能登侍從前田利政の末路も、丹羽長重と共に悲しむべきものゝ一なりき。先に利政は八月の役に出軍し、大聖寺城の攻撃に參加したりしも、九月再度の出征に際しては遂に之に從はざりしを以て、戰後家康はその罪を責めて所領を沒收せり。利政がかくの如く軍役を拒むに至りし事情は詳かならず。慶長記慶長五年九月二十三日の條には、『加賀前田孫四郎(利政)敵の約有とて、兄のうつたへ有之、牢人也。』といへども、事實は利長が利政の從軍せざりしことを報告せるまでにして、よもその同胞を敵に内通せりとは彈劾せざりしなるべし。加賀藩史稾に據れば、利政の志は、利家の遺訓に從ひ、秀頼を輔けて豐臣氏の業を起さんとするにありき。是を以て利長と稍相善からざりしが、利長の芳春院を江戸に質とするに及び頗る異議あり、遂に疾と稱して兵を出さゞりしなりといへり。然りといへども、芳春院の質として江戸に入りしは六月六日に在るが故に、利政にして果して之を悦ばずとせば、八月の役に從ひし理由を發見する能はず。况や芳春院の既に江戸に在る今日、若し前田氏にして東軍に與せずんば、却りて芳春院の運命を危殆ならしむべく、この説の信を措くに足らざるを知るべし。されば長氏家傳には之を説明して、利政の室蒲生氏郷の女が大阪に於いて石田三成等の爲に質とせられたるに因るとし、越登賀三州志の註にも之に類する説を擧げたるを以て、寧ろ眞相を得たるものたりと考へらる。蓋し利政がその夫人の安危に關して憂心忡々たるものありしは事實にして、六月十六日夙く之をその領邑に迎へしめんと謀りたる證あり。次いで七月十七日夫人は大阪城に收められたるが、二十六日利政が利長と共に金澤を出發したる頃には、未だその確報に接せざりしたるべしと思はる。是を以て彼は西軍の與黨たる山口宗永を攻撃するに躊躇せざりしといへども、その後上國の形勢明瞭となり、利政の進退は直に夫人の生命に關することなしとせざるを知るに至り、大に逡巡せざるを得ざりしものゝ如し。利政の痛苦一にこゝに繋り、豐臣氏社稷の存亡の如きは必ずしも彼の深憂たらざりしこと、元和元年五月大阪城の陷落せし際、生島主計に與へたる書に『大阪早速落城にて上下倶大慶推量可有之候。』といへるを以て見るべきなり。利政罪を獲たる後京師に卜居し、祝髮して宗悦といひしが、寛永十年七月十四日市人角倉與市の家に歿す、年五十六。福昌院怡伯宗悦と諡し、紫野大徳寺塔頭芳春院に葬る。利政の嫡子直之、後宗家利常に仕へて老臣の班に居る。 尚々路次にて成共能樣御申上候て、女共罷下り候樣萬事たのみ入申候間、肥前(利長)樣へ能樣御談合奉頼存候。 一筆令啓候。仍々罷下候刻御暇乞可申處、少相煩候故無其儀候。然者先日如申入候、女共北國へ罷下候樣、連々御才覺頼入申候。か樣罷下候へども、たしか成留主何とも持不申候。母之者(芳春院)も江戸に候へば、萬事十方なき躰之間、是非共頼入候。いさひ之儀者清和可申入候。恐々謹言。 羽孫四 六月十六日(慶長五年)利政在判 田清六殿 人々中 〔温故足徴〕 前田利政畫像鹿島郡長齡寺藏 前田利政画像