以上大聖寺・淺井兩戰役前後の事情を述べ終れり。是等戰鬪の詳細を記するもの、世に山口軍記・小松軍記等の書ありて、稗史野乘の域を脱せずといへども、亦多少の得る所なきにあらず。たゞ奉納軍記なるものに至りては、舊來最も貴重せられたるに拘らず、頗る疑義の存するものあるを見る。 奉納軍記は原名を淺井戰圖覺書といふ。その小松多太神社に藏せらるゝを以て又奉納軍記の名あり。この書の成れるは慶長五年九月十五日にして、前田氏の臣井上十左衞門政詮が、丹羽氏の臣丹羽久太郎常長及び山口氏の臣山口助左衞門定利等と小松に相會し、大聖寺・淺井二役に關して互に見聞する所を記せるなりといはる。然りといへども、九月十五日には前田・丹羽兩氏の和議未だ成立するに至らざりしを以て、兩家臣の會同欵唔すること決して有り得べきにあらず。祝やその内容を見るに、先づ長重が七月十二日門出の血祭の爲に多太八幡宮に賽して勝利を祈請し、當社に藏する所の齋藤實盛の冑及び木曾義仲の寄進状を見、浪人古曾部入善及びその三子にして多太神社の社家たりし富岡右京を召し出しゝに、彼等は皆長重の軍に投じたりとのことより説き起したるもの、直にその巫祝の筆に成れるものたることを知り得べきにあらずや。加賀藩士成瀬正居が夙にその僞書たるを疑へるもの、當然ながら卓見といふべきなり。 正居案に、此軍記まづは後世の作り物にもあらざるやう成れ共、疑をいはゞ、初に實盛の甲冑並に義仲公の送状・矢一見とあるが、甲冑とて今は兜と袖左右のみ、矢も雁股二本のみあり。兜と袖はさも源平の時代の物にも有らんと見ゆれども、實盛のかいかゞ。送状は文字の墨付よからず、後世の作り物と見ゆ。しかし、慶長の其むかし實の送状有しかもしらず。其外此兜・袖に添て、大立上の臑當左右あれども、是と雁股根殊更後世の取集めものゝやうに思はる。且朝倉記と云ふ軍書をし長重の見られしとの談話おぼつかなし。その上神主の先祖古曾部入善が事を委敷いへるは、當社の縁起のためならんかなれども、いよ〱いぶかし。とはいふものゝ、卷末の連判の墨色、總而の文中の文字の墨色などを、よく見、よく考べきものなり。 安政四年巳三月六日成瀬主税藤原正居記 〔丹羽子爵家本奉納軍記跋〕