既にして珠姫の入輿すべき期は迫れり。是を以翌六年金澤に在りては、城内本丸に新殿を興造せしが、尋いで珠姫江戸を發して下國の途に就き、徳川氏の老臣大久保忠隣・青山忠成二人は之を送り、之に對して金澤よりは前田長種・長連龍等を越前金津の上野に派し、利長も亦自ら侍臣を率ゐて手取川に至り迎へたりき。珠姫時に三歳。その江戸より金澤に至る間、東海・北陸二道の領主皆新たに橋を架し茶屋を設けて疑待し、遂に九月を以て著輦せりと傳へらる。從ふ所の家老興津内記忠治以下數百人は、皆石川門外に邸第を構へ、その地を稱して江戸町といへり。 珠姫が利常と何れの日に婚儀を擧げしかは、諸説紛々として明瞭を缺けり。蓋し之を慶長十年に係くるものゝ非なることは、珠姫の三歳なりしといへる事實と抵觸するが故に論ずるまでもなく、その江戸出發を七月朔日とし、金澤到著を九月晦日とするものも亦疑なき能はず。何となれば、七月朔日出發とするは三壺記の記載にして、本書は慶長十年説を採るものなるが故に、その年をのみ棄てゝ月日をのみ正確なりとするは頗る危險と言はざるべからず。又九月晦日入輿とするは諸書に多く記する所にして、何等かの根據あるが如しといへども、金澤著輦の日なりや、將た婚禮の日なりやは明らかならず。思ふに福井藩の記録に、九月八日珠姫の通過せることを載せたれば、それより金澤に至る間に二十餘日を要するの理なく、隨ひて九月晦日は著輦の日にあらずして婚禮の日なりと考ふるを適當とするが如し。且つ江戸より福井に至るに七月朔日より九月八日までを要せしと假定すれば、その間實に六十六日なるを以て、これ亦信を措くこと難く、七月朔日の出發にあらざることを斷じ得べきが如し。 晦日(九月)台徳院の姫君[于時三歳]御輿加州に入て、松平筑前守利光(利常前名)に嫁し給ふ。大久保相模守忠隣・青山常陸介忠成是を送り來る。安藤對馬守重信・伊丹喜之助康勝[後播磨守と號す]・鵜殿兵庫頭・久志本左馬助等供奉す。越前國金津に於て、大久保相模守乘輿を渡す。前田對馬守(長種)是を請取る。青山常陸介御貝桶を渡す。長九郎(連龍)左衞門是を請取。 〔家忠日記〕 ○ 態致言上候。仍江戸大納言樣御姫君樣、御猿樣え御祝言之儀目出度奉存候。尤罷越御祝儀可申上候處、南部表一揆少々蜂起之由ニ付而、下人數可相働之旨被仰出候間、當國人數庄内邊迄罷立候。就其拙者式も出陣仕候條、乍存以使札申上候。隨而御太刀一腰・御馬代黄金一枚並紅花百斤致進上之候。委曲横山大膳迄申入候間、可被得尊意候。恐惶謹言。 村井周防守 九月廿七日(慶長六年)頼勝 利長樣 人々御中 〔武家事紀〕 ○ 江戸御發駕は七月朔日(慶長十年)にて、大久保相模守・青山常陸介御供にて、越前金津の上野迄參り、金澤より前田對馬守(長種)・奧村伊豫守(永福)・村井豐後守(長頼)・神尾圖書(之直)、其外の人々記に不及。御前樣御家老として宇喜津(興津)内記、御用人として由比民部(重勝)・矢野所左衞門・矢野覺左衞門、其他御徒・御料理人・下男に至迄數百人御供にて、新丸石川御門の外は江戸町とて長屋を被爲連、御奧方の御用を承る金澤の人あし賑か成事申計なし。江戸より金澤迄上通の道筋掃除を致し、橋を新たに掛直し、舟橋を懸け、一里々々に茶屋を建させ、國々の大名御馳走として奉行を付、傳馬人足自由にて、旅行の心はなかりけり。越前は御伯父三河守(結城秀康)殿御在城、近江路迄役人を附置せ給ひ、御馳走被成けり。金津の上野にて請取渡し規式相濟。路次中の御慰に、酢屋の權七と云狂言師、銀の立烏帽子に朱の丸つけ、素袍袴にてかうべを振り、道すがら御輿の先に立をどり、其間には小謠の上手につれ歌うたはせ、諸藝を盡し金澤へ入らせらるゝ。御供輿百餘挺、御賄方の役人駕籠に乘馬に乘、江戸より金澤迄山海の珍味百味の飮食を備へ、御慰物・御進物・捧物入遠〱晝夜のさかひもなかりければ、旅行を忘れてはや金澤へ入らせ給ひけり。 〔三壺記〕