利長已に珠姫に於いて舅氏たり。是を以て七年正月八日啓行して江戸に赴き、公女の來嫁を謝せんとせり。秀忠乃ち利長に許すに、途次放鷹を禁ずる所に於いて擅に之を試むることを得しめ、その板橋に至りしときには自ら出でゝ迎へたりき。二十六日利長江戸に入り、翌日登城して秀忠に謁し盛饗を受く。而も徳川氏の前田氏に臨むこと漸く舊の如くならず、共に豐臣氏麾下の侯伯たりし情誼を撤廢して、君臣の差別を明らかにするに至りしを以て、利長は頗る失望に堪へざるものありしといはる。次いで利長は京師に入り、又伏見に如き、大阪に至りて秀頼に謁し、遂に金澤に歸城せり。 利長關東へ參らるべき由かねて申されしに、折ふし大御所(家康)關東(伏見カ)に渡らせ給ひたり。大納言家利長(秀忠)を迎へ給はんとて、板橋の邊に御出あつて、見參の事を悦び仰せらる。利長かねてはかくあるべしとも思はれず、悦び思ふ事淺からず。又の日城に上られしに、大納言寢殿に御出あつて、利長の座を遙かの下に設けらる。對面の義殊に嚴重に、饗應の式また善盡せり。利長此時は悔しき事に思はれしとぞ聞えし。黄金百枚・白銀千枚・時服百領を献ぜらる。大納言家より、鍋藤四郎の御脇刀に黄金百枚・馬・鷹そへて賜はる。此後子息(利常)に國讓り、引籠り居て再び關東へ參られずと古き人の語りしが、古記に合せ見るに大やうは違はず。又古き人にうけたまはる。慶長のころの下文に、大御所と利長と連署たりしを見きといふ。されば此度利長見參の事、上下の分定りぬべき時なれば、大御所の伏見へ上らせ給ひし事も深き御心ありぬべし。又大納言家の振舞も、いにしへ准南の黥布が漢の高祖へ參りし時に、事さかしまにして心は均かるべきや。天下の英雄駕御の法、千載ともに一揆なり。 〔藩翰譜〕