七年五月四日利長、老臣横山大膳長知に命じて、太田但馬長知を金澤城中に斬殺せしめき。横山の太田を撃たんとするや、太田刀を拔いて横山を刺しゝが、懷中の鏡に中りて創けられず。横山即ち再び打ちて太田を殪せり。勝尾半左衞門横山を助けんとして來り會し、亦肩を傷つけらる。太田は慶長五年以降大聖寺城を守りしものなり。是に至りて利長は、淺野將監を遣はしてその城を收めしめしに、太田の臣吉田茂右衞門・鹿内木工之を拒みしが、利長の親書を得るに及び初めて命を奉ぜり。後横山長秀・津田重久をしてこゝに居らしめ、横山長知は功によりて太田の遺領一萬五千石を加賜せらる。太田の戮せられし理由は明らかならず。或はいふ。太田嘗て狐兒を害せしかば、老狐之を恨み、太田に扮して利長の嬖妾に通ずるの状を爲せり。利長之を見て眞に太田なりとし、遂にこの事あるに至りしなりと。是のこと信ずるに足らざるも、婦人に關する事たりしは疑ふべからざるが如く、象賢紀略に太田の成敗せられし後數人の女房の刑せられたるもの、亦併せ考ふべし。後越後の國主堀秀治・新發田の城主溝口秀勝等之を聞き、使を遣はして利長を慰問せしを以て見れば、當時この問題が如何に世評に喧しかりしかを知るべし。世本太田の死を八日或は十四日或は十七日とするものあり。今並びに之を採らず。 一、太田但馬守大正寺御陣より三年之間、利長樣御前出頭、中々かたをならぶるものもなく、大正寺城御あづけ一萬五千石、扨又城れうと御意候て五千石、合二萬石被下候事。 一、三年目の五月十七日に、金澤城にて横山大膳に被仰付御成敗、色々さま〲之儀候事。 一、大膳に十日計以前に被仰付時、大膳被申分、利長公被仰分、色々さま〲の儀後にきこえ申候事。 一、第一は御手かけ衆おいまをはじめ、中使彼是五人、めをぬかせられ、御家中人持衆十人計に御みせ候。其時篠原出羽へんじ門をは入申候時之申分氣分を後までほめ候事。 〔象賢紀略〕 ○ 態令啓候。仍太田但馬守事、被仰付之事實候哉、千萬無御心許存候。中納言殿(利長)え以書状可申上候へ共、慥之義不存候條、各迄如此候。御次而之節可然樣に御取成頼入候。恐々謹言。 羽久太郎(羽柴) 五月廿日(慶長七年)秀治在判 横山大膳亮(長知)殿 御宿所 〔漸得雜記〕 ○ 爲御見廻一書致言上候。仍上方珍御沙汰無御座候。御心易可被思召候。然者太田但馬殿義不相屆族御座候付而被仰付樣に承、驚入存候。無是非仕合共、乍恐御心中奉察候。尚横山大膳殿迄申達候。恐々謹言。 溝口伯耆守 五月廿二日(慶長七年)秀勝在判 利長樣 參人々御中 〔薫墨集〕