十一年四月備前・備中・備後三國の領主宇喜多秀家、その長子八郎・次子小平次及び僕隸十人と共に八丈島に配流せられたるを以て、秀家の夫人は前田氏に復歸せり。夫人は利家の子豪姫にして利長の妹たり。世に備前君と稱せらる。秀家關ヶ原の戰に於いて西軍の將たりしが、敗後逃れて薩摩に憑れり。島津忠恒乃ち南禪寺承兌によりて秀家の罪を赦されんことを請ひしに、八年死一等を減じて駿河の久能に放たれ、こゝに至りて更に南島に謫せられしなり。秀家の助命に關しては、諸書或は利長の盡力によるが如く記するものなきにあらず。案ずるに、島津氏の奔走せしことはその史料甚だ多く、毫も之を疑ふべからずといへども、利長も亦姻戚として默過すべきにあらず。故を以て兩者相應じて、家康の激怒を緩和し得たるものなるべし。後前田氏資財を毎年八丈島に送り、以て宇喜多氏の生活を助く。 加賀の前田家より、毎年八丈島浮田家子孫のもとへ、費用のために、小金幾星、丹藥幾包、其外瑣細の物件定數ありて、目録のごとく、公けの官吏に付して八丈が島へ達せしむ。翁加賀(室鳩巣)にありし時、其いはれを故君に問に、澤橋兵太夫といふ者より起りたる事なり。豐臣太閤の時、前田家の先祖大納言利家の女を、太閤養女とし、浮田秀家に嫁す。是秀家の夫人なり。然るに慶長年中關ヶ原師散じて後、秀家は石田方の渠魁なれば、死罪に處せらるべかりしを、島津家の乞哀によりて、死一等を減じて、秀家並に其子八郎、八丈島へ竄逐せらる。八郎に乳母ありけるに、是はとくに逃去ぬ。其介の女房[俗にさしといふ]八郎が幼少にして、乳母に離れて遙々島に赴くを、ふかく泣悲しみ、徒跣にて官廳に詣り、しきりに八郎につれて島に到らんと願ひけれども、制禁ありし程に是をゆるさず。女房此上はなにのためにいきてあらんとて、すでに自殺せんとするを、官吏おさへて、さて議しけるは、此女房を目前にて見ころしなば、後に上にきこえん時、不便におぼしめして、など窺はざりしと、もし御とがめもありなんか。只窺ひ奉りて、御旨にまかするにしくはなしとて、窺ひければ、女なればくるしかるまじ、島へつかはし候へと命下りしかば、女房限りなくよろこびて、秀家父子につれて島へ赴きけり。其時三歳なりし子を抱き、浮田秀家夫人のもとへ來て、自は八郎御曹子の御事、餘りいたはしく候へば、御供申候て島へ參り候。此御奉公を忘れおはしまさずば、此子を御側の人に仰付られ、御そだてさせ、人になして給り候へと、いひすてゝさりぬ。夫人此子を常に膝下に置て撫育し、此子が母は身をすてゝ我子八郎が先途を見屆し者なれば、此子をばわが子とおもふべしとて、所生の如くせられしとなり。其子の父はいかなる者にかありけん、しらず。氏は澤橋にてありける。夫人後には加賀に到り、前田家に依ておはせしが、秀家備前國守たりしによりて、加賀國人夫人を構稱して備前君とす。今に其墓加賀に在り。夫人在世の時、澤橋氏が子成長して、仕べき程になりしかば、彼家にて所領給り、澤橋兵太夫何がしと名乘けるが、たゞ明暮母の事をのみ思ひて涙をおとしけり。いく程なく、遁世の願あるよしにて國をさり、形をかへて僧となり、いづかたにありとも行衞しれざりけるに、元和のころにかありけん、將軍家御上洛ありて、二條の御城へ入せらるゝ時、ひとりの僧御駕輿ちかく訴状之さゝげるを、御供の中より抑へけれどもきかざりける程に、討てすてんとしけるを、御輿の内より御覽ありて、沙門を聊爾なる事いたし候な、訴状うけ取候て、御跡より召連て參り候へと、御直に上意あり。さてもと前田肥前守(利長)家來のよし申によりて、前田大和守(利孝)御上洛の御供にてありしに、御預ありて後、程なく江戸へ還御ありしかば、大和守召具して江戸に下りぬ。其訴状の趣は、某三歳の時母にて候もの主家の爲に八丈が島へ罷越て候。母を島にさし置、其子として跡に殘り居候ては、いきてあるべうも覺えず候。御慈悲に母と一所に、島へつかはされ候へとの事になんありける。官吏、上の御旨を奉りて、思ひとまるやうに、再三寛喩ありけれども、御うけ合申さず、所詮思ひ切たる樣子なり。上にも其志を不便におぼしめさるゝにや、かさねて仰出さるゝは、島へつかはさる、事は、御大法におゐてならせられぬ事なり。島より母を召返さるべし。島より歸るやうに、文にて申こし候へとありければ、兵太夫申やう、ありがたき御事に候。たとへ申こし候ても、母中々承引仕まじく候。されど仰出されたるにて候まゝ、申こし候はんとて、文かきてつかはしけるが、兵太夫申ごとく、母島にて其ふみを見て、大きに腹だち、我汝が三歳の時、御主の先途を見屆けんとて、上へ奉願て一度こゝへ來りし者が、今汝を見んとて、御主をすてふたゝび歸るべきやうやある。いと口惜き事を聞ものかな。かさねて申こし候はゞ、返答にも及まじといひこしける。官吏、兵太夫を公廳へめしよせ、是程に仰出されてかなはねば、上にもなさるべきやうなし。其かはりには、外に願たき事あらば、御かなへ下さるべきよしいひ渡しければ、兵太夫かしこまりて、卑賤の身として上をはゞかり奉らず、所存を申上候に、重く御取上ありて、是程にまで仰出され候に、此上に私の所存をたて申べきにも候はず。たゞしひとつ願ひ奉りたき事こそ候へ。前田家は浮田と由緒ある事にて候へば、彼家より毎歳助成の金並に入用のもの承り候て、永代島へさしこし候やうに、公命下り候はゞ、限なき御恩澤にて候べし。しからば母もよろこび申にてあるべく候。某母への孝行このひとつにて候。外に願ひ奉るべき事はなく候よし申上ければ、其事下りて朝議ありけるに、是はくるしかるまじき事なり。されど金も員數多くはなりがたし。其外の物も品によりてならぬものもあるべし。所詮僉議して、其員數其物品をきはめて、前田家へ申渡し候やうにとの事にて、今に至るまで毎歳加賀の家より、定めの如くしたゝめて官へ付し、官より其物件を點檢し、島へ送り屆ける事になりたり。此事四方へきこえしかば、列侯の家より爭て徴辟せしかども、兵太夫、我此後仕官の所存なし。但加賀の家は舊君の事なれば、是は辭すべからずとて、加賀へ歸參しけるが、程なく病死し、子なくして家絶えにける。翁古今を考ふるに、母子たがひに忠孝の道を盡したる事、是に類すべきはなし。一奇事といふべし。况や匹夫をもて、萬乘の尊を動し奉りし事、至誠の致す所とも申べし。然るに是程の事を、加賀にてさへ今は沙汰する人も稀なれば、其名世にあらはれずして埋るゝこそ口惜候へ。 〔駿臺雜話〕