十四年三月十八日富山城災あり。利長乃ち難を魚津城に避けしが、次いで射水郡關野に築き、九月その成るに及び之に徙る。城郭の規模頗る壯大、遺容今尚之を見るを得べし。是より關野を改めて高岡といへり。然るに翌十五年より利長病を發せしかば、將軍秀忠及び前將軍家康は屢書を致して状を訪ひたりき。發病の時期は、秀忠の賜書の初めて三月二十七日に在るによりて略知るべく、症状は利長自身の書状に腫物とし、當代記・慶長年録には唐瘡なりとせり。 腫物被相煩候由、如何候哉無心元候。能々可有療治事專一に候。猶重而可申越候。謹言。 三月廿七日(慶長十五年)秀忠在判 越中中納言(利長)殿 〔薫墨集〕 ○ 就所勞無心元、重而溝口伯耆守遣候。聊無油斷療治尤候。猶口上可申候。謹言。 卯月朔日(慶長十五年)秀忠在判 越中中納言殿 〔薫墨集〕 ○ 煩無心元候間、使者差遣候。無油斷御養生專一候。謹言。 卯月十日(慶長十五年)家康在判 越中中納言殿 〔薫墨集〕