十九年五月利長の病革るとの急報金澤に至れり。利常大に駭きて高岡に至り、親から湯藥を採りて之を侑む。利長、利常を見て大に悦び、その手を執りて曰く、我れ生きて汝に訣別するを得たるは、實に望外の幸なり。若し夫れ宿痾の如きは、これ天の命にして醫藥の如何ともする能はざる所なりと。乃ち溘焉として薨ず、齡五十三。時に慶長十九年五月二十日なり。計二十五日を以て駿府に達す。家康偶碁を圍みたりしが、『利長の事、さて〱惜しき事、笑止なり。』といひ、直に石を投じたりと白石紳書には記せり。 五月十(廿)月、越中國富山羽柴肥前守死去。近年唐瘡病惱、終以如此。 〔當代記〕 ○ 五月廿日羽柴肥前守、越中於外(富)山之城、唐瘡之煩ニ而死去、五十三。 〔慶長年録〕 ○ 五月廿五日、自加賀國飛脚到來。去廿日加賀肥前守利長、歳五十三逝去之由、今日申來云々。在府之諸候麾下多士、爲追悼利長悉登城。 〔駿府政事録〕 前田利長畫像侯爵前田利爲氏藏 前田利長画像 利長は利家の嫡男にして、永祿五年正月十二日尾張國荒子に生まれ、童名を犬千代又は孫四郎といひ、初諱を利勝と稱す。天正十一年四月利家の金澤城に移りし時、利長松任四萬石を領し、十三年九月十一日利家と共に羽柴氏を冒すを許され、又封を越中國礪波・射水・婦負三郡に移し、後守山城に居る。十一月廿九日從五位下に叙し、肥前守に任ぜられ、十四年六月廿二日從四位下侍從となり、十二月十九日豐臣氏を冒すを許さる。尋いで文祿二年閨九月晦左近衞權少將に昇り、四年權中將に轉じ、慶長二年九月廿八日參議に任じ、同年十月富山城に移り、三年四月廿日利家の封を襲ぎて從三位權中納言となり、金澤城に治し、四年十二月廿日權中納言を辭せり。五年十月十七日に至り利長加賀・能登・越中三國を領せしが、十年六月廿八日家を弟利常に讓りて富山城に退き、新川郡等を養老領とし、十四年三月十八日富山城炎上せしを以て魚津に居り、九月高岡に移り、以て十九年五月の薨去に及べり。是に於いて、後水尾天皇は特に卹典を賜ひ、詔して正二位權大納言を贈らせらる。