吾人はこゝに利長薨去前後の事情を記し終るに際し、當時老臣に本多政重ありて、前田氏の提封を維持するが爲偉大の功績ありしことを附記せざるべからず。 本多政重は徳川氏の老臣佐渡守正信の第二子にして、天正八年を以て生まる。政重年十二の時、倉橋長右衞門の養ふ所となり、長五郎と稱し、二年の後出でゝ家康の臣となりしが、慶長二年秀忠の乳母子岡部莊八を斬り、伊勢に遁れて正木左兵衞といひ、幾くもなく京師に行きて大谷吉隆に仕へ、四年更に宇喜多秀家の臣となりて祿二萬石を食み、五年西軍に從ひて伏見及び關ヶ原に戰ひ、その敗るゝに及びて近江の堅田に隱棲せり。小早川秀秋等これを聞きて辟さんとせしが、政重は之に從はず、安藝に赴きて福島正則に仕へ、三萬石を食めり。次いで七年、正則を辭して利長に屬し、本多山城と稱す。その食祿尚舊の如し。然るに九年、政重は又去りて米澤に赴き、上杉景勝の臣直江兼續の養子となりて、姓名を直江勝吉と改め、通稱を大和又は安房といひ、後米澤を脱して京師に入れり。 本多政重が先に前田氏を去らざるべからざりし事情は之を知ることを得ざるも、恐らくは彼が關ヶ原戰役に於いて西軍に屬したりしを以て、徳川氏が前田氏の之に高祿を食ましむるを欲せざりしによるものゝ如し。而も徳川氏にして異議を挾まずとの諒解を得ば、佐渡守正信の子たり、上野介正純の弟たり、武に長じ文に暗からざる彼を起用することは、加賀藩が幕府との關係を圓滑ならしむるに於いて、非常の適任者なりといふべし。是を以て慶長十六年四月十六日藤堂高虎は書を利長に與へて、利常の之を祿仕せんことを勸めしに、五月五日利長は之に答へて豫め幕府の承認を得るの要あることを述べたるに、六月十日高虎は利長及び利常に對して、幕府の異議なきを確めたることを報じ、之に因りて利長は六月十七日利常に對して速かに政重を招くべきを勸告せり。而して利常も素より同意なりしが故に、同月廿七日利長より書を高虎に送り、直に政重に來藩すべき意を傳達せられんことを依頼せり。政重乃ち七月十八日を以て金澤に着し、復本多氏を冐して前祿三萬石を食み、且つ異日更に増封せらるべきを約して、五萬石の判物を得たり。この後利長は利常をして、庶政一に政重の參畫に待ちて之を行はしめき。 猶以能樣に心得候而可給候。以上。 書状披見申候。直江安房守昨日其地迄被著候由被申越候。存候者迎をも可出候處、不知候而無其儀候。能々心得候而可給候。舟にて被越候はゞ、未可爲草臥候間、緩々與此方(高岡)へは被越候可被申候。先筑前守(利常)所へ目見候而尤候。謹言。 肥 七月十九日(慶長十六年)利長在判 奧村攝津守(榮頼)殿 〔本多家記録〕 ○ 以分國之内五萬石之所令扶助了。全可被致知行之状如件。 慶長十六年八月十二日利光(利常前名)在判 本多安房守殿 〔本多家記録〕 ○ 一、萬事我等ためのぎ、きも被入候てたまわるべく候。其下(許)さしづをうけ申度候。頼入申候事。 一、ちぎやうわり、分國中しおきたう(仕置等)頼申度候へども、さだめて左樣のぎもむづかしく可被存候間申かね候。其段は先々延(遠)慮候。さりながらしまりの儀はきかれて、よきやうまかせ入申候事。 一、公義むきのぎ、又は御ふしん以下、其下さしづ候てたまわるべく候事。 右之やうす、猶以奧村伊豫守・同河内守れう人口上に申含候。以上。 二月十四日(慶長十七年カ)利光(利常前名) 本田(多)あわのかみ殿 〔本多家記録〕 ○ 御ふみ給、まんぞく申候。誠にちくぜん(利常)義、其方せいを入られ候ゆへ、いづれも下々ともにしまり候て、まんぞくこれにすぎず候。いよ〱せいをいれ候て可給候。明日はて候ても、此ぶんに候へばまんぞく申候。其方さくじ(作事)、ざい木なき所にて候間、一入くらう候べく候。さし。 九月十九日(慶長十七年)ひ(利長) あわの守殿 參 〔本多家記録〕