政重の加賀藩に筮仕せる後、慶長十八年幕府は前田氏の領有する越中新川一郡を返上すべきを命ぜんとしたるを以て、この重大問題を解決する爲には、直に政重の力を假らざる能はざりき。蓋し新川郡は初め佐々成政の領有たりしが、天正十五年成政の肥後に移さるゝに及び、秀吉假にその統治を利家に委任し、文祿四年更めて之を領有せしめたるなり。然れどもこは單に秀吉の口約に止り、何等證憑に備ふべき判物を與へざりしが故に、徳川氏はその形式の不完全なるを口實として之が返還を議するに至りしなりといはる。利長即ち當面の處置を政重に計りしに、彼は父兄の盡力を請ひてそのことなからしめんと欲し、當時江戸の老中たりし本多正純と駿府附老中たりし本多正信とを訪ひて、前田氏が新川郡を領有するに至りたる事情を述べ、長く之をその封土とするの理由あることを訴へしに、遂に幕府はその請を容るゝに至りたりき。 瑞龍院(利長)樣、越中一國可被差上旨付、以政重佐渡守(本多正信)え被仰遣、上野介達(本多正純)御聽。此時江戸・駿河(秀忠・家康)兩上樣爲伺御機嫌奔走及七度、無相違越中國如前々可被進之由就上意、百二十萬石全御領掌。瑞龍院樣御直、今度者政重功勞與御意。 〔本多氏家譜〕 ○ あわのかみ(表書)(本多政重)殿ひぜん(利長) 以上 御じやうひけんいたし候。そのほうやしき、てらにしわかさ(寺西若狹)・にしむらくろづやしき(西村藏人)一しよに、そのほうへちくぜんかたよりつかはし候よしに候。もつともに候。ゑど・するが(正純・正信)へのじやうどもっかわされ候よし、まんぞくいたし候。こんどゑど・するがにて御ほねおりのぎをも、なにかととりまぎれ申入ず候。なをこれより申べく候間、さう〱申入候。 五月六日(慶長十八年)印(利長) 〔本多家文書〕