前田氏が新川郡を失はざるを得たりしば、實に政重の功によれり。是を以て十九年利長の薨後利常は前約を履行し、六月十三日附を以て政重に二萬石を加増し、合計五萬石を食ましめき。蓋し秩祿の大なる海内陪臣の筆頭に居り、爾後加賀藩に於いて『安房樣と駄賃持』なる語は、月鼈霄壤の意を表するが爲に用ひらるゝことゝなれり。或は曰く、新川郡返上問題の起りしとき、前田氏は政重に約するに、事若し功を奏せば十萬石を與へて小松城代に任ぜんことを以てしたりき。政重因りて密かに之を父に告げしに、正信は、食祿の多きに過ぐるを以て禍を招くの基なりとなし、假令侯の賞賜あるも五萬石以上を受くべからずと戒めたりしによると。利常が六月十六日書を本多正信父子及び土井利勝に與へて、政重が先侯利長の遺命を奉ぜざるを嘆じ、彼等の説諭によりて政重を承服せしめんとせるは、利常が政重を以て名實共に老臣の首班たらしめんとせしに、政重は先に關ヶ原戰役の際西軍に屬したる公儀日蔭者たると、前田氏に譜代の老臣多きとを理由として、命を奉ぜざりしが故に外ならざるなり。 出羽(篠原一孝)・閑齋(山崎長徳)・備中(岡島一吉)爲御使、中納言(利家)樣わたくしに以來迄別而御目をかけさせられ、御うしろ立にも罷成候やうにと、れん〱被仰候而御諚ども、みやうがしごくに奉存候御事。 一、筑前(利常)樣御心付として御加増貳萬石被下候旨、誠ありがたき仕合可申上やうも無御座候。此砌之事に御座候間、方々の御事御取こみ可被成處に、思召付させられ急度御きを付られ候儀、外聞實儀ありがたき共中々申上がたく、かんるいをながしたてまつり候。委細兩三人之御使並攝津守(奧村榮頼)かたへ御請之口上申上候間、可被奉得御意候御事。 一、利長樣わたくしに被成御意候も、筑前樣御うしろ立に罷成、存寄候事をば御ための儀申上候へとの御諚に候間、さま〲忝儀共かさなり申候間、筑前樣へきつと御奉公申上候はで不叶儀に候處に、猶以今度御きを付させられ、色々忝御諚共、みやうがにかないたる儀と難有奉存候。公義日かげに御座候條、さし立ての儀は右に御理申(コトハリ)上ごとく御めん可被成候。内々の儀をばいかやうとも御ため能やうに御奉公可申上候。しぜんの儀も候て、御ぐんやく等、御さきてあるひは御國はしにをかせられ候共、二心なく一筋に御奉公可申上候御事。 一、駿河・江府へ内々にて被仰遣候儀共、身におよぶ程はせいを出し内談可仕候。其段は乍恐御心安可被思召候。御年寄衆もおゝき中に、かやうに取分我等一人のやうに、おくそこなく御心安御目をかけらるゝ上は、たとへ御心にかけさせられ候共、よきあしきに付存寄候事をば可申上候。尤思召の通をも被仰聞可被下候。申上ても〱、今度之御諚共外聞實儀忝存候御事。 右之條々いつはり申上においては、 〓六月八日(慶長十九年) 〔本多家所藏案文〕 ○ 爲加増二萬石以分國之内令扶助訖。全可被爲領知之状如件。 慶長十九年六月十三日利光(利常前名)在判 本多安房守殿 〔本多家記録〕 ○ 本多政重畫像男爵本多政樹氏藏 本多政重画像