この頃土井利勝は、將軍秀忠の台旨を奉じて駿府に到り、利常をして利長の遺領を繼承せしむべきや否やに就いて、家康の指令を請ひたりき。これ利長の養老領なるものは、その性質全く分封と同一なるものなるを以てその子をして襲封せしむることを必とせざりしに因るなるべし。然るに家康は之を繼がしむべきに決したるを以て、七月十三日利常の臣前田長種・奧村榮頼・水原左衞門は駿府に至りて命を請ひしに、家康は三人を召して、特に利長の遺領を利常に與ふることを告げ、且つその中三萬石を分かちて秀忠の女なる利常夫人が鉛黛の料に宛てしめき。家康又三人に告げて曰く、利常齡尚若し、汝等力を協せてこれを輔けよと。長種等感泣して退き、各加賀絹五十匹を献じ、又利長の遺品備前三郎の太刀及び不動正宗の脇指を上る。次いで利常は、自らその恩命を謝せんと欲し、九月十六日駿府に至り、即日家康に謁して黄金三百枚・紅染絹二百匹・白絹百匹・守家の太刀及び二字國俊の脇指を贈りしに、家康は報ずるに寺家の太刀と長光の脇指とを以てせり。利常の從臣奧村榮明・奧村榮頼亦時服を献ず。この日哺時、本多正純・土井利勝繼目の朱印状を奉じて來り、之を利常に傳ふ。是に至りて加賀・能登・越中三國の領土、再び利常の併有する所となる。二十三日、利常江戸に至りて秀忠に謁す。利常の物を献ずること尚駿府に於けるが如くなるべしといへども、その品目は傳はらず。而して秀忠は利常に長銘正宗の太刀を、奧村榮明に來國光の太刀を賜へり。この日秀忠も亦家康と同じく、三ヶ國永封の朱印状を利常に與ふ。是に於いて利常は、十月朔日を以て江戸を發し十一日金澤に歸城せり。 本多政重はその後尚初志を固執して政局の表面に立つを肯ぜざりしを以て、元和二年利常は庶政を横山長知に委し、政重の同意を得たる後之を決行せしむることゝし、且つ政重が家康・秀忠二人に謁見を許されて、所謂日蔭者たらざるに至らば、藩内外の政務を指揮すべきことを命じたりき。 覺 一、書付何れも御聞屆被成候。こまかなる義は安房守には似合不申候と、内々被思召候間、結局おもし(重石)かろく見へ申候間、こまかなる事は山城守(横山)可申付候。但少之義をもあわのかみにだんがう仕、其上にて可申付候事。 一、御家中ふれ状、又は何ぞ仰出しの時は、安房守を以被仰出候と、状之文躰にも又は口上にても可申付事。但相談候て判形仕り可然義には、安房守判形可仕候事。 一、氣相あしく、こゝろ六ヶ敷候時は出仕に不及候。天氣能時は用無之とも出仕いたし、萬事可申付事。 一、池田御供之義、理り御聞屆被成候。こなたより御さしづ可被成との義に候事。 一、兩御所樣御目見へ被仕候上は、自國他國之義によらず、萬事のさし引可被仕候御事。 右御諚之趣承候所如此。 辰正月十一日(元和二年) 〔本多家記録〕