ハビアンが初め患ひたりしといふ病症に關しては、頗る疑なき能はず。何となれば、若しこゝに謂ふ所の癩にしてサーラートの意なりとせば、之を治し得るもの基督の奇蹟以外決して有り得べかりしとは信じ難ければなり。是を以て南蠻寺興廢記に癩瘡と記したるを正しとし、彼は天刑病にあらずして護謨腫なりしと斷ずる醫家の説を採るべし。但し興廢記に、ハビアンが秀吉の南蠻寺を毀たしめたる際、西國に逃れて往く所を知らずとせるは誤なるべく、諸家の説を綜合するに、天正十三年白鷹居士と宗論を試みて敗を取れりと切支丹宗門來朝實記に載せられたるハビアン、文祿元年天草の耶蘇會學林にて編纂出版せし國譯羅馬字本平家物語拔書編者のフカン・フワビアン、慶長十年妙貞問答を著して基督教の大意を述べたる不干齋巴鼻庵、同十一年林道春がその弟信澄と共に、松永貞徳の紹介により訪問して議論を交へ、排耶蘇の一編を羅山文集中に遺さしめたる耶蘇會者不干氏は皆同一人にして、天正の禁制以後も尚その操守を變ふることなかりしなり。然るに慶長十八年の禁令以後に至りて、彼も亦遂に佛教に復するの止むを得ざりしものゝ如く、元和六年基督教を説破するが爲に破提宇子の一書を著せるハビアンとはなれりしなり。 ハビアンの徹頭徹尾信仰を恪守する能はざりしに比するときは、族を擧げて國外に放逐せらるゝも、尚泰然として驚かざりし高山南坊こそ、眞に宗教界の勇者といふべきなれ。南坊通稱は右近、諱は長房又友祥に作る。その教名をドン・ジユーストといひ、南坊大虚は彼が薙髮後の名なり。南坊のミナミノボウと訓むべきは、駿府記に南之坊とし、パゼーはジユースト・ミナミノボウと記したるによりて之を知るべし。南坊は攝津高槻の城主ドン・ダリオ高山飛騨の子。初め織田信長の荒木村重を降さんとするや、彼は先づその羽翼たる南坊を招致するを得策なりとし、南坊が基督教徒なるを以て、天正六年十一月その尊信する伴天連オルガンチノ・ソルディーをして之に説かしむるに、彼にして若し織田氏に屬せば基督教弘布の自由を與へらるべきも、然らずんば宣教師の放逐と宗門の斷絶とを豫期せざるべからざるを以てせしめたりき。南坊乃ちその信仰を繼續せんことを希ひ、信長に謁して村重に黨したる罪を謝せり。信長大に喜び、南坊に與ふるに芥河郡を以てし、又厚くオルガンチノを賞せり。十年五月南坊命を受けて、將に高槻を發し山陽道に入りて秀吉の軍を援けんとせしに、會信長は明智光秀の爲に弑せられしを以て、秀吉と尼崎に會してその先鋒となり、光秀を山崎に討ちて大に功ありき。翌十一年柳ヶ瀬の戰に、南坊又秀吉に屬し、中川清秀と寨を列ねて賤ヶ岳を守りしに、敵將佐久間盛政火を縱ちて清秀の營を襲ひしかば、清秀は奮戰して之に死し、南坊は遁れて羽柴秀長の木ノ本の陣に投ぜり。是より後、秀吉は南坊を怯懦なりとして、漸く排斥するの色あるに至れり。