天正十五年秀吉九州を征す。時に南坊は播磨國明石の城主たりしが、又その軍に從ひ、基督教の諸大名と共に十字旗を陣頭に飜して大に勇名を顯せり。然るにこの役、偶秀吉は基督教の禁止を令し、伴天連等をして日を期して國外に去らしめたりしが故に、同時に命を南坊に傳へ、彼が改宗を肯ぜざる時はその領土を沒收して追放すべきを以てせしめたりき。南坊乃ち之に應へて、秀吉の爲にはその生命を捧ぐべきをも辭せずといへども、基督教は彼が幼時より信奉する所にして、到底之を捨つるに忍びずと答へしに、秀吉は大に怒り、遂にその領土を奪ひて彼が宣言を實行せり。 南坊既に領土沒收の命を得て明石に歸るや、彼の父は彼が戰場に於いて怯懦なりしが爲なりと曲解して一たび大に憤りしも、後その實際を知るに及びて深く同情し、彼が宗門の爲に耻辱を得たることを神明に感謝せりといふ。然るにドン・アウグスチン小西行長は南坊の逐はれたるを聞き、密使を送りて暫く行長の領邑小豆島に隱遁すべきを勸めしを以て、南坊はその厚意を謝して之に從へり。是より先、伴天連オルガンチノも亦遁れてこの地に在りしが、行長は腹心の臣屬に命じて島嶼卯を守備せしめ、基督教徒に非ざるものゝ之に近づくを禁じたりき。小豆島に於ける南坊は、專ら祈禱と默想とに居諸を送り、その熱烈なる信仰は深く人をして感動せしめしのみならず、之を傳聞して新たに基督教を研究せんとするに至りし者も尠からず。細川忠興の夫人ガラシヤの信者となれるもの、亦こゝに動機を發せりといふ。行長も亦往々にして南坊を訪問し、而して彼の信仰は南坊との會同によりて益鞏固なるを致せり。次いで天正十六年、行長の封を肥後國宇土に移さるゝや、南坊にも亦同行すべきを勸めたりしが、當時南坊は有馬晴信より來住を勸告せられたりしが故に、遂に行長に辭して有馬に赴き、その地に在りしエスイト會の修道院に入れり。南坊のこゝに留りし間に、細川忠興等大坂より屢書を送り、秀吉の先非を悔いて南坊を赦すの意あるを以て、速かに來り謁すべきを告ぐ。南坊乃ち之を行長に諮りしに、行長は能く秀吉の性癖を知りしを以て、決して意を安んずべからざるを訓誨せり。而も南坊の之に從はずして大阪に赴くや、秀吉は南坊の舊功を同憶せざるにあらざりしも、敢へて之に謁見を許すは己が威嚴を傷つくるの嫌ありと考へたるが如く、南坊に命じて徳川家康又は前田利家に仕へしめんとしたりき。南坊、利家と舊知あり。因りてその領内に住せんことを希ひ、利家亦爲に高祿を與へて之を優遇す。その食封は二萬石なりといひ、或は二萬七千石なりといひ、或は一萬石とし、或は廩米三萬二千俵とし、諸書の傳ふる所一ならず。是より先蒲生氏郷・豐臣秀次等も亦彼を聘せんと欲したりしが、南坊の之に應ぜずして北陸に安住したりし所以は、一は利家の人格を憧憬したるが爲なるべけれども、又利長と同門の茶人として親善なりしに由らずんばあらざるなり。