茶人としての南坊は、千利休の高足にして、七哲の一として指を屈せられき。利長嘗て南坊を招き茗宴を催す。喫茶既に終り、利長立炭を爲しゝに、南坊感賞して曰く、侯の工夫極めて珍重、こはこれ源三位頼政の歌意を汲むものにあらずやと。利長聞きて大に悦べり。異日利長の臣生田四郎兵衞といふもの、南坊が言ひし所の意を問ふ。利長曰く、この言汝輩の能く解し得ざる所なるべし。頼政は後白河天皇に仕へて和歌に巧なりし人なり。天皇嘗て頼政に十文字の題を與へて一首を咏ぜしむ。頼政乃ち『曙の峰にたな引横雲の立つは炭やく煙なりけり』と吟じ、因りて叡感を辱くするを得たりしと傳ふ。余光に試むる所の立炭甚だ妙ならずして、茗家の嫌惡する十字状を爲しゝを以て、香を焚きて之を避けたり。南坊の余を賞せし所のもの即ち是なりと。利長・南坊二人の交情その基づく所あるを見るべし。 南坊が前田氏に仕へし以前の閲歴と、その前田氏に仕ふるに至りたる事情は略上述の如し。是を以て、食封に多少の差こそあれ、往時は共に織・豐二氏の侯伯として同列なりしもの、今や一轉して主從の約を結ぶに至りたりといへども、南坊は固より不平の念を抱くことなく、天正十八年秀吉關東征伐の際には、利家幕下の部將として之に從ひ、秀吉の譴責を蒙るの恐ありしに拘らず、彼の家紋たる七星を用ひず、十字旗を飜して奮鬪し、平時に在りても亦その熱烈なる信仰を傳へんが爲、熾に基督の教義を鼓吹し、爾來この念佛國にデウスの福音を聞くに至れり。然れども南坊の此の如き態度は、決して一身の安全を期待すべき所以にあらず。慶長元年十二月秀吉の長崎に於いて西班牙の宣教師を磔刑に處するや、南坊は己も亦迫害を受くること遠からずとなし、豫め伏見に赴きて利家に暇を告げ、多年の恩遇を謝するが爲に二個の茶碗を贈れり。因りて利家は、彼が漫に死を急ぐなからんことを諭し、秀吉の意單に西班牙宣教師を誅するに在りて、決して耶蘇會を禁ずるにあらざるべしとて之を慰撫したるに、南坊は常に死を致すの覺悟あるを語りて還れり。爾後南坊は依然客將として加賀に在り、慶長四年には利長の爲に金澤城を修築し、七年には教徒内藤徳庵を周旋して前田氏に祿仕せしめ、十四年には又高岡城設計の重任に當れり。