内藤徳庵諱は忠俊、飛騨守と稱す。その如安とも號するは、數名のドン・ジユアンより採れるなり。父源左衞門は織田信長に仕へて丹波に封ぜられ、祿二十萬石を食めり。徳庵年十六にして軍に從ひ功あり。父の歿後封を襲ぎしが、次いで致仕して野處すること數年、又小西行長に仕へ、文祿の役之に隨ひて朝鮮に赴き、行長の明國と媾和を議するに及び、徳庵その使節となり、小西如安の名を以て屢往返措辨せり。後加藤清正に寄りて五千石を食みしが、清正が外教を好まずして之を追へるを以て、轉じて前田氏の臣となるに至りしなり。その俸祿は四千石とし、又二千石に作らる。子釆女好次亦肥後に在りて三千石を食みしが、前田氏に來りて千七百石を得たり。 南坊・徳庵等を臣僚としたる利長は、亦基督教に謝して好意を有し、己はその信者たらざりしも、毫も彼等の傳道を妨害することなく、寧ろ之を助長せしむる傾向すらありしことは、フランシスコ・コリンの『耶蘇會員のフイリピン諸島布教』に載せらる。その書に曰く、秀吉は南坊及び伴天連等を追放したる後九年を經て薨ぜり。前田利家も亦その翌年に薨じたるを以て、嫡子利長その家を襲ぎたりき。利長は固より南坊を敬愛すること父に超え、基督教に關して深く南坊の説を諒解せしのみならず、凡そ救靈の方法は基督教以外に決して之を求め得べからざるを悟り、その老母を介して京都に於いて顯要の地位を占むる三人の姉妹に諭し、從來行はれたる日本の宗門が皆譎詐に出づるものなるが故に、生前洗禮を受くるの利なることを以てせしに、その中先に秀吉の養女となり、三國の領主宇喜多秀家に嫁せる一婦人は、遂にその二子及び多數の僕婢と共に信徒となれり。さればその母も亦洗禮を受けんとせしこと屢なりしが、未だ徳足らずしてこゝに至る能はず。利長自身にありては聖教の禁戒を保持する力なきを理由として受洗するに至らざりき。而も其の實際の事情は、彼が國家の法令を畏憚するに止りしを以て、教徒に對して常に懇切に待遇し、之に加ふるに南坊の金澤城附近に會堂を建設するを許し、耶蘇會に屬する伴天連をしてこゝに住居せしめ、且つ誠心誠意を以て基督教に歸依せんとする者に決して干渉を加ふることなかりしかば、巨祿を食む藩臣にして改宗する者多く、傳道の目的を以て故らに此の地方に移住したる信者と共に、皆南坊を柱石として信頼せり。されば南坊も亦彼等の爲に斡旋することを吝まず、殊に内藤ドン・ジユアン[徳庵]及びドン・トメー[好次]二人が、基督教に對して敵意を有する肥後の國主加藤清正の爲に追はれて難を避けし時、慶長七年彼は利長に請ひて之を領内に招き、多額の俸祿を給せしめたりと。利長に關してはパゼーの日本耶蘇教史にも、亦その慶長十年の條に公然基督教を保護したる諸侯の名を擧げ、福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政等と共に、フイジエンドノ即ち前田利長を數ふるを見る。