家康の外教禁止を實行する爲に、その宣教師を國外に放逐し、又邦人にして信徒たるものを轉宗せしむべしとの命令が、利長の許に達したりしは、利長が恰も元且の祝宴を張りし時に在りしとコリンはいへり。利長乃ち之を地方教徒の首領たる南坊に傳へしに、南坊と親交ある武士等はこれに勸めて、彼及びその妻子を當面の難境より救はんが爲、一時僞りて轉宗を誓ふの利なる所以を説きたりき。南坊も亦固より這次の命令違反が、流刑にあらずんば死刑の一大悲劇を齎すべきを知れりといへども、彼は内藤徳庵・同好次・宇喜多久閑(千五百石)・品川右京(千石)・柴山權兵衞(五百石)等の同志と謀り、遂にデウスの爲に一命を献げんと決心し、又彼等と共に金澤に在りし宣教師に對し、密かに此の地に止りて殘餘の教徒を慰籍せんことを囑し、之に關する方法を示したりき。宇喜多久閑は宇喜多秀家の夫人豪姫が金澤に歸りしとき伴ひ來りたるものなり。而して宣教師といふは、三壺記に『金澤甚右衞門坂の下にばてれんあり』と記したるものにして、西班牙人バルタザル・トレスなるべし。トレスは名門に生まれて哲學と神學とを學び、後マカオに在ること八年、慶長五年京都に渡來して日本語を學び、大坂に移りて布教し、十年加賀に入り、十九年に至るまで滯留せりといふ。 南坊等の捕縳が何れの日に在りしかは、今之を明らかにする能はず。駿府記によれば、『正月廿六日(慶長十九年)、松平筑前守利光(利常前名)使札到來。高山右近[南之坊也]・内藤飛田守依爲伴天連宗旨捕之、遣于京都板倉伊賀守。其外宗旨替者不替者、記録而献之。』といへば、是の時既に護送の途に在りたるを知るべく、越登賀三州志に三月七日に係くるものは、之を捕縳の日とするも、出發の日とするも、着京の日とするも當らざるなり。 初め南坊等の縳に就かんとするや、彼は多年の恩遇を謝するが爲、利長に黄金三十枚の價値ある茶碗を贈り、利長の弟利常にも亦黄金六十枚を献ぜり。コリンは、この六十枚は本年收納の未進額にして、侯の再び農民より徴税することなきを請はんが爲なりしと記し、又パゼーは、利常がこの金子を領收せざりしことを記せり。次いで南坊は、その妻ジユスタ及び子十次郎と女子某等を伴ひて金澤を發せり。十次郎は容姿極めて端麗、好みて能樂を演じたりしを以て、時人『能を見ようなら高山南坊面(オモテ)かけずの十次郎を』と謠へりと稱せらるゝものにして、女子は即ち前田氏の老臣横山長知の子康玄の妻とし、その父母と訣別するを欲せざりしを以て、遂に離婚を康玄に求めて行を共にしたりしなり。この時内藤徳庵も亦妻と四子とを伴ひ、好次も同じく妻子を携へたり。時に春寒頗る料峭、崎嶇たる山路を經、十日を費して比叡山の麓坂本に至り、こゝに京都より命の至るを待ちしに、暫くして彼等を長崎に送致すべく、家臣は之に隨行するを許さず、女子は京都に留らしむべしと傳へられき。而も尚その妻子は、彼等の夫たり父たるものに別るゝを欲せず、共に大坂に下りて海路長崎に向かへり。又加賀の藩臣今枝直方の筆記に從へば、南坊の京都に移送せられし時、藩は篠原一孝をして之を監せしめしが、南坊の帶刀を奪はれて籠輿に乘ずるを見、一孝が素より南坊と相善からざりしに拘らず、籠輿を用ふる如きは決して士人を遇する所以にあらずとなし、普通の乘輿と兩刀とを與へんとせしに、南坊はその厚意を謝したる後、武器を帶するは主君に憚ありといひて受けざりしといへり。思ふに南坊は、利家の遺誡中に『高山南坊世上をもせず、我等一人を守り律義者』と言はれたる人。必ずや基督教的好紳士なりしなるべし。