南坊の女壻を以て長知なりと誤れるものは、延きて長知によりて採用せられたる丸内卍の家紋が、久留子紋の一種なりと考ふる第二の誤謬を生ずるに至れり。今この事を論ずるに當り、聊か横山氏の家系に就きて研究せざるべからず。蓋し横山氏は、その家傳に從ふときは、小野氏より出でたる武藏七黨の一なりとせらる。然れどもこの所傳は眞僞頗る疑ふべく、寧ろ享保雜誌に、舊と熱田大宮司の末流に出でたるが、その近江國横山に居るに及びて採りて名字とせるなりといへるを首肯すべし。熱田大宮司は即ち千秋氏にして、三葉柏を以てその家紋としたることは、太平記十四に『又北なる山に添て三葉柏の旗の見えたるは敵か味方かと問へば、熱田大宮司百騎計にて待ち奉る。』とあるによりて知るべく、而して横山氏も亦本來三葉柏を家紋としたりしが、長知の時丸内卍に改めしものなれば、その家系が千秋氏より分岐せるか、若しくは熱田神宮の勢力範圍に屬する地の住人なりしか、二者その一たるべきは之を推察するに難からざるなり。 横山先租、熱田大宮司の末孫零落して、兄弟二人所を退、江州に來り磯野氏を頼。時に江州も戰國の折節成に、江北の内横山・赤尾の兩所共に領主無之故、隣郷より彼地を押領せんとする事度々故、領主を承度と彼里民存する折節、兄弟磯野を頼來事を聞、横山の者共磯野所へ、兄弟の内兄を乞請、永々主君と仰んと望む故眞意に任せ兄を遣す。依て在名を名乘、横山二郎左衞門と號、是横山の祖也。右之趣赤尾の者共聞て、弟を又乞請て主とするなり。其後數年を經て、同國長濱と横山と合戰有、横山方より長濱方を放火す。于時東本願寺の末寺蓮永寺と云道場をも横山燒之。[一説に横山半喜かと]其後双方和睦して事靜し後、蓮永寺の檀那中、彼道場を燒たる横山を打殺し可申と、一揆して横山へ寄來るが故、彼横山云は、予一人故に又騷動する事如何とて、又逐電して諸國行脚の身と成けり。大宮司の家紋は三柏也。依て横山・赤尾共に三柏也。中略。又横山卍字を付る事、彼逐電の諸國修行の比、頭陀袋に付たる紋也。彼横山、利家公(利長)に仕て横山山城守祖也。則江州余語に先祖寺在之、山城守より通路在之と云。 〔享保雜誌〕