飜って南坊等に就いて見るに、この年二月一日以降、外國に追放せらるべき者相繼いで長崎に着し、耶蘇會の宣教師は耶蘇會の地方長に、他派の宣教師は各その派の長老に責付せられ、而して諸侯の命によりて追放せられたる信徒も漸くこゝに護送せられしが、南坊は是等の信徒中に在りて名士の第一に屈指せらるゝものなりき。その後南坊の一族は、東上町鳥の羽屋敷に拘置せられしが、幕吏間宮權左衞門の下向するに及び、内藤徳庵と共に南蠻遠流を命ぜられ、遂に唐船造の船舶に搭して、浦五島町の波戸口より出帆せり。彼等が追放の命を受けたりしは、六本長崎記に之を九月なりとし、クラセは陽暦十月二十五日とするが故に、兩者相一致すといへども、その長崎出發は、六本長崎記に十一月上旬とし、コリンは陽暦十一月の初と記するが故に、互に齟齬するを見る。蓋しコリンを以て正しとすべきに似たり。