長崎出帆以後に於ける南坊の行動は果して如何なりしぞ。クラセに據れば、南坊及びその妻ジユスタ等は、宣教師八名、宣教師の稱號を得ざるもの十五名、耶蘇會學校の日本少年十五名、多數の西班牙教師等と共に、フイリピン島に向かひて出帆せしに、偶暴風の飜弄する所となり、一ヶ月に亙りて海中に漂蕩し、その船體の古く且つ積載量の過多なりしが爲に、船底に罅隙を生じて海水の浸入を招き、小船内の生活特に困難なるものありしかば、四名の教師をして命を殞さしむるに至りしも、南坊等は能く之に堪へて遂に目的地に達したりき。その呂宋到着は、コリンに從へば陽暦十二月廿一日なるが故に、陰暦に於ける十一月廿一日なりしなり。 南坊はその信仰を固執せんが爲に、遂に波濤萬里を超えたる異境に配流せらるゝに至りたりしが、かくても尚彼はその基督教信者たることに對して天恩を感謝したりしか、或は謬りて異教を奉せしが爲にその大身たる地位を失ふに至りしを悔いたりしかに就いては、長崎古今要覽に、彼が『南蠻の惡徒に迷はされ、彼に傾きかゝる身となる事、宿因の程こそ恨めしけれ。』と嘆じたりとし、六本長崎記にも亦『邪宗門に落入し事、かへす〲も無念なりと後悔せしよし。』と記すれども、此の如きは皆我が國の外教禁止以後に於ける一種の宣傳たるに過ぎず。新井白石の如き具眼者に在りては、南坊等の此の國に在りてこそ大身なるが故に教徒も之を尊重したりしが、外國に赴きたる後はその待遇また舊の如くならざりしを以て大に後悔せりと前人の傳へたるは、『わざと申ふらし候にやと存候。』[白石先生手簡]といへり。 南坊が呂宋在留中の事情を最も詳述せるものはクラセなり。曰く、南坊はフイリピン島に於いて衆人の尊崇と厚遇とを得しかば、何等の缺乏を感じ何等の思慮を煩はすことなかりしといへども、彼の最大幸福とする所は此に在らずして、彼が擅に教會に出入し且つ法務に盡瘁するを得るにありき。然るに彼が本國に在りし時、屢信仰上の困苦に遭遇したりしのみならず、フイリピンに來りし後風土寒暑の身心に適せざるものありしによるか。或は食餌の慣習を變じたるが爲にその健康を害したりしによるか。或は航海の艱難によりて疾病を釀したりしかを知らずといへども、彼が現世を辭すべき時期速かに近づき、マニラ到着の後四十日にして猛烈なる熱病の侵す所となりしかば、寧ろ死して上帝の傍に侍せんことを希ひ、師父モレジヨンに對して、彼がこのカトリツク國に來り、善良なる師父に見えて命を終ふるの歡喜を述べ、官憲と交友との恩遇を感謝し、尋いで病漸く篤きに及びその妻子に告ぐるに、益誠意を以て上帝に奉じて十戒を恪守し、耶蘇會教師の訓諭に服從せざるべからざる所以を以てし、その聖油を塗抹せられし間には連りに基督の名を呼び、遂に從容として瞑目したりき。これ實に千六百十五年二月五日の事なりしといへば、我が元和元年正月八日にして、彼の年齡はコリンに從へば六十三歳なりしとせらる。