然りといへども、外教の爲に命を殞しゝ者、藩内に一人もこれなかりしにはあらず。南坊の法弟に鈴木孫左衞門ありしが、慶長十八年に於ける外教禁止の際、彼は轉宗を誓ひて處刑を免るゝことを得たりき。後孫左衞門は越中魚津に駐在し、尋いで江戸に祗役せしに、その際孫左衞門が内心眞に改悔せしに非ざるを密告する者ありしかば、藩は之を江戸より召還し、その一族上下七人を魚津に磔殺せり。この時金澤に盲人澤市といふ者ありしが、孫左衞門と交りて教義を傳へられ、その他之と信仰を同じくする者尚十餘人を算へしに、藩は澤市夫婦を郊端泉野に磔殺し、その餘を悉く梟首に處したりき。この事の三州奇談に載せらるゝものは、粉飾多きに過ぎて事態の眞を失へるが如しといへども、孫左衞門の刑せられたるを魚津在住大音主馬の時に在りとするは參考に資すべく、主馬の魚津在住は寛永四年乃至十三年に在るが故に、略その時代を知るべし。契利斯督記に、家光時代加賀に宗門の徒を出せりといふもの、亦この事件を指すものゝ如し。 將軍家光の時、幕府が外教を嚴禁するに拘らず、諸國尚潛匿するもの多かりしを以て、踏繪の制を初め、商船の遠航を禁じ、洋書の輸入を防ぎ、その教徒を發見するや所罰の手段最も峻烈を極めしかば、寛永十四年彼等は遂に勃發して島原の亂を起したりき。この役、前田利常の子光高は自ら討伐の任に當らんことを請ひしも、家光は、未だ卿を煩はすの要なしとて許さゞりき。是を以て加賀藩は、山崎小右衞門に持筒足輕武部久左衞門・堀江加左衞門二人を添へて從軍せしめたるに止り、十五年二月島原城陷るの日、久左衞門奮戰して賊の首級を獲しかば、藩は功を賞して祿百石を與へ、班を進めて歩組に列せしめたり。 肥前島原一揆起、近々討手被遣節、中納言(利常)樣は本郷御屋敷に築山被成、八町堀其外所々より、大石・つくり木毎日修羅・牛車に而引申候。町々の木戸共につかえ申所を、大工大勢被遣こぼち、引申候跡より又結構に立被遣候得ば、あはれ肥前殿石・植木等通り候へかしと願申出に御座候。其内島原彌々つのり候へ共、肥前(利常)殿に普請有之躰は、定而いかめしき事は有間敷と申ならし候。然所筑前(光高)樣被爲召保て、島原一揆共鎭り兼申候間、罷越しづめ可申旨上樣え望被申、退治被致候へと被仰。筑前樣御意には、陣用意も不致、俄にはいかゞ可有之哉と被仰候得共、其段何共可成候と御意に付、御老中を以御望み被成候得者、誠に御滿足に被思召候、御自分馬を被出程の事には無之候間、今度は御頼み被成間敷と、上意に而御座候。其以前にはや金澤老中にも、自然筑前樣島原え被爲入事も可有御座候。左右次第關ヶ原迄御人數を繰出し可被成よし御内意有之由。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕 ○ 加州より天草へ山崎小右衞門を被遣しに、御持筒頭の竹部久左衞門(武)を召連しに、久左衞門は城中やぶるゝ日手を合、首一つ取けるに付、百石御知行被下、御徒の内へ被召出。 〔三壺記〕