島原の亂の鎭定せる年九月、幕府は初めて囑托金の制を定め、伴天連の訴人に銀二百枚、伊留滿の訴人に銀百枚、切支丹の訴人に銀五十枚若しくは三十枚を與ふることゝせり。これその教徒の遺類、尚逃れて四方に散在するものあらんを恐れ、全國の都市・宿驛・渡船場等に高札として告示したるものにして、加賀藩に於いては幕府の囑托金以外別に伴天連の訴人に金子十枚、伊留滿の訴人に金子五枚、切支丹の訴人に金子三枚の副賞金を附せり。この制札の掲げられたる所を囑托場といひ、藩はこゝに大判金十枚を掛けて之を告發者に與ふることを示せり。但し享保十二年三月町會所所有物調書中に『高札見せ金、判金拾枚、下地赤金(アカガネ)、金めつき。』とあれば、後には正金を囑托場に掛くることを廢して、模型を用ふるに至りしなり。 定 一、伴天連之訴人金子拾枚 一、いるまんの訴人金子五枚 一、きりしたん訴人金子三枚 右きりしたん宗旨之もの、御分國中に於有之者可申上候。然者公儀御褒美之外、如此書付黄金可被下旨被仰出者也。仍如件。 寛永十五年十月朔日 〔御定書〕 ○ 請取申御高札並御掛金之御事 合拾枚者金子大判也 右者きりしたん宗旨御改之御高札、並御掛金判金拾枚慥に請取置、夜之儀者兩天秤屋方え月替に預置、毎日御札掛場にかけ申所如件。 寛永拾五年拾月二日竹屋仁 兵 衞印判 拾間町太郎兵衞印判 片町六右衞門印判 新町彦右衞門印判 堤町正 兵 衞印判 山崎町九 兵 衞印判 葛卷隼人樣 長瀬五郎右衞門樣 〔小松遺文〕