寛永十六年七月廿三日幕府の閣老等又令して曰く、基督教は既に堅く之を禁ずる所たりといへども、今尚密かに伴天連を來航せしめんとすといへり。是を以て自今船舶の着津するものにして疑ふべきあらば直に之を精査すべく、若し外國船の風波に遭ひて來るを發見するときは、その乘組を上陸せしむることなくして注進するを要すと。同月廿九日光高乃ち之を領内に告げ、その訴人に對しては幕府よりする賞金に更に半額を加へて之を與へんといへり。 基督教徒の嚴禁せらるゝや、法規を惡用して無辜を陷るゝものありて、津田勘兵衞重次の如きは實にこの奇禍に罹りたる一人なりとす。勘兵衞の父遠江守重久は初め明智光秀に仕へ、光秀の叛せし時本能寺攻撃軍の先鋒に加りしが、後高野山に遁れ、更に關白秀次の臣となり、秀次生害の後來りて前田氏に仕へ、老後道供と稱せしものとし、勘兵衞も素より禪宗の檀那にして、基督教と關係する所なかりき。然るに寛永十八年十月金澤城の大手に、勘兵衞が高山南坊の徒にして、後に改宗せりといへども、内心實に之を放棄せしにあらずと書したる高札を立てしものあり。是に於いて藩吏勘兵衞を江戸に護送し、利常より幕府に上申せしが、固より確乎たる事實あるにあらざるを以て空しく歳月を過し、慶安四年遂にその地に客死したりき。藩吏が勘兵術の冤罪たるを知りながら、尚且つ明瞭に之を斷ずること能はざりしは、實に幕府の法を憚ること常軌の外に出で、これに因りて禍の藩主に及ばんことを恐れたるを以てなり。