幕府は上述の如く、苟くも基督教と關係ある如く考へらるゝ者は、根幹を掘り枝葉を芟りて之を絶滅せしめんと欲し、風聲鶴唳にも尚戰々兢々たるが如く、『切支丹宗門之者、今以所々より密々あらはれ捕之候。何方にかくれ有之も難計候間、家中並領内彌念を入相改之、不審成者於有之者可爲穿鑿事。』との命令は、寛文元年八月にも、同四年十一月にも、同十一年二月にも頻々として發布せられたりき。隨つて藩内に於いても屢宗門改を勵行し、一意專心取締に盡力せしかば、その祖先の一たび基督教徒たりし者は、假令現に確實なる佛教信者たりとも、尚藩吏監督の嚴酷と隣保交際の冷淡とに堪ふる能はずして自らその生命を縮むるものあり。彼等が自己所有の家屋を賣却する場合にすら、藩の許可を經ざるべからざりしこと、之を藩の記録に徴して明らかにすべし。彼等に對する調査は毎年定期に之を施行し、十月に於いて幕府に上申するを例とせしが、元治元年内藤休甫の類族内藤三知の病死するに及び全然絶滅するに至りしを以て、爾後宗門改書上の中なる『轉切支丹類族之者共、常々之行跡疑敷儀無御座候事。」の項を省けり。