加賀の中、江沼郡地方に於ける基督教傳播の状況が如何なりしかは、今之を詳かにするを得ざるも、大聖寺藩の創置せられたる後、尚轉切支丹類族として監視を受けたるもの往々にして文献に見ゆ。秘要雜集に據れば、甚兵衞といふ者元祿八年十月十三日を以て死したりしに、藩の宗門奉行松原嘉藤次・目付小塚十左衞門等之を檢視し、足輕三人をして警衞せしめ、遺骸を本光寺に葬りしが、その死屍を容るゝに高三尺徑二尺一寸の桶を用ひ、鹽一石五斗を以て防腐し、埋葬の際又宗門奉行は之に立會ひ、その終るや直に早飛脚を派して江戸に上申せりといふ。寛政四年正月十日上河崎村の市十郎が死するに及び、類族全く統を絶つ。