關ヶ原の戰後豐臣氏の上下は、その徳川氏に對する地位早くも舊の如くならざるに慊らざりしが、家康の征夷大將軍に任ぜられ、秀忠亦之を襲ぐに及びて益疑懼の念を抱き、海内の侯伯中故太閤の重恩を擔ひたるものに就きて、力を遺孤の爲に致さんことを勸奬したりしが、その最も深く望を屬したるは、秀吉が秀頼を託したる利家の子利長たりしこと、固よりこゝに言ふまでもなし。たゞ大阪方が利長にその交渉を開始したることの、果して何れの年に在りしかに至りては、少しく之を研究せざるべからず。 前田家譜によれば、慶長十年四月利長その子利常を伴ひて京師に至りしが、幾くもなく利常を伏見に留めて己は國に就きたりき。この時淀君は書を利長に致しゝが、文中に、妾他日將に卿に囑する所あらんとす、願はくは之を容るゝに吝ならざらんことをとの言ありき。利長乃ち淀君の意必ず我が兵力を假らんとするにあるべきを察し、その返書に、貴女の求むる所、我未だ何の件たるやを知らずといへども、若し金穀の匱乏に關する事の如くならば、一に貴女の命のまゝならんのみと答へ、一面本多政重を介してその交渉の顚末を家康に告げしめしに、家康は大に利長の忠實なるを嘉賞したりき。是に於いて利長は、豐徳二氏の干戈を以て相見ること遠きにあらずして、この間に處する己の地位甚だ困難なるものあるべきを思ひ、遂に請ひて老を告げ、六月二十八日封を利常に讓るに至れりといへり。この説眞に近きが如くなれども、未だ全く信を措き得べからず。何となれば、淀君が擧兵の志を起したるを慶長十年に在りとするは、餘りに早きに失するものあり。殊に利長が隱退せんとせし計畫は、之より先既に決したる所にして、三月に於いてその養老城の設計すら成りたりしのみならず、家康に使したりとする本多政重は、この時前田氏の臣僚たらざりしを以てなり。蓋し前田氏と豐臣氏との深甚なる關係あることは、世人の能く知る所なるが故に、此の如き説を捏造せらるゝに至りたるものゝ如し。又關屋政春古兵談にいふ。慶長十八年冬織田左門頼長は秀頼の使として高岡に來り、若し異變の大阪に起ることあらば直に侯の援兵を假り得んと請ひしに、利長は、我れ今不幸にして病を懷き、軍旅の間に馳驅する能はず。况や既に致仕して手兵幾くも存することなく、當主利常も亦將軍の女壻たるが故に、その心事必ずしも測る可からずと應へたりといへり。この事或は信じ得べしといへども、尚之を證すべき確實の文献を發見すること能はず。