豐臣氏の諸將が明らかに擧兵の意あることを告げ、前田氏に對してその助力を求めたるは、實に慶長十九年三月に在りき。徳川實紀に據れば、この頃大阪城に在りし織田有樂・大野治長は、密書を利長に送りて曰く、今や秀頼の齡漸く長じ、武將たるの器量亦備れり。卿速かに大阪に登りて之を輔翼し、大事を決行し給ふべし。軍糧の如きは城中現に貯ふるもの七萬石、福島正則の將に搬入せんとするもの三萬石、之に加ふるに都下商賣の倉廩に在るもの若干、是等皆卿の處置に一任す。今黄金千枚を卿に贈る。宜しく軍容を壯にして出陣せらるべしと。利長之に應へず、大阪より遣はしゝ書を齎し、本多正純を介して之を駿府に上らしめき。家康之を見て曰く、假令豐臣氏にして金銀を蓄積すること山の如くなるも、頃者社寺を興隆せんが爲工を起しゝこと多く、その半は既に虚耗して空しからんのみと。敢へて憂色を見ざりしといへり。駿府記のいふ所亦之に同じく、關係文書も亦薫墨集に見ゆ。 秀頼樣事御才覺、彌追々令増長候。漸時節此時候。兵粮以下大坂有之分、福島左衞門大夫手前三萬石、秀頼樣御藏米七萬石、其外商賣兵粮數多有之候間、早々上洛等萬端可有御指南候。恐々謹言。 大野修理亮 三月十日(慶長十九年)治長在判 羽柴肥前守(利長)殿 御宿所 〔薫墨集〕