この際、前田利政も亦大阪より參加を勸誘せられたる一人なりき。利政は關ヶ原戰後能登の所領を沒收せられて京都に流浪せしが、秀頼は加賀・越前二國を懸けて誘ひしも敢へて應ぜざりしかば、家康聞きて其の志を嘉し、十萬石を與へて仕へしめんとしたりき。利政曰く、我が大阪に隨はざるは關東に對する忠節にはあらず。一は大野治長・渡邊糺輩の指揮を受くるを欲せざるが爲にして、一は良將を得ざる籠城の萬一にも勝利を得る能はざるを知ればなり。若し徳川氏にして我が大阪に與せざるを賞して祿せんとせば、十萬石は尚之を過少とすべく、單に我が力を假るの要ありとせば舊領を復するを以て足れりと。遂に家康の慫慂をも亦辭せり。聞書雜和集にはこの事を記して、『利政も器量の仁也。』といへり。 この年十月朔、利常國に就かんと欲して江戸を發し、信濃路を經て十日越中の境に至りしに、申刻に將軍の急使到りて利常に大阪出陣の令を傳へたりき。利常乃ち一日一夜にして城に歸るといへば、必ず左右と共に駿を駛せしなるべく、その金澤に入りしは十一日なりしと思はる。越登賀三州志の記する所は之と異なり、今採らず。既にして利常は十四日を以て啓行せんことを令したりき。利常の夫人諫めて曰く、これ吉辰にあらず、願はくは期を延べんことをと。奧村永福も亦大坂に至るの距離甚だ近しとせず、諸臣未だ行裝の整備せざるあるを理由として、數日を緩くせんことを請へり。利常曰く、既に一たび令を發せり。今にして之を變へなば、常に軍令を輕んずる者あらんを虞ると。時に奧村易英は、十四日に出陣せば將軍と大津附近に相會するを得べく、若し停滯して關東の譴を得ば、假令吉日良辰を擇ぶとも何の益かあらんと説きしに、議遂に決せり。利常乃ち十三日を以て軍令を出し、又部署を定めて奧村永福を金澤城代とし、小松城に前田長種、大聖寺に近藤甲斐、七尾に三輪吉宗・大井直泰、魚津に青山長正、富山に津田義忠、今石動に篠原滿了を置き、本多政重・長連龍・前田知好・篠原一孝・山崎長徳・山崎長常・村井長光陣代・岡島一吉・富田重政・富田宗高等の諸將をして皆軍に從はしめき。當代記には、その兵凡べて二萬といへり。 大坂御陣觸に、何茂早く用意仕候へ、三日の内に御立可被遊と被仰觸候へば、奧村快心(永福)出申上候は、御日限今少御差延可然奉存候。大阪迄は餘程の間、其上用意も仕兼可申と申上候へば、御意(利常)には、其方申處尤に候へ共、申觸候事はや違候へば、此度の陣は我等下知はきかぬ筈にて候間、其儘に致し置候へと被仰候。御尤成儀と快心も申候。扨三日目に御立、道中成程靜に御越ゆゑ、御跡より何茂追付申候よし。松任に一兩日御逗留に而、追々かけ付申候よし。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕 ○ 軍法定 一、武者押並陣取之次第、一組宛先繰々々に不入込樣に可申付。備を離れ、私として陣取散々に在之族、可爲越度事。 一、旗本騎馬之次第、定置之通不可有相違。主人お(下)り立候共、右之次第馬をひかせ可申事。 附、船渡可爲同前、若猥に相交り候者可爲曲事事。 一、武者押之時、脇道通候儀一切有間敷事。 一、敵陣に近く、先手え爲見廻相越候儀、小姓馬廻後備之面々堅令停止候。惣而他之備に相交候儀可爲曲事事。 一、先手之者並旗本面々、我々背下知備を崩、卒爾之働仕儀に付而は、縱雖爲高名可爲曲事事。 一、諸事奉行人申付儀不可相背。自然不屆之輩、對奉行及申事候ば、不立入理非、其者可處越度事。 一、當座之使、如何樣之者差遣候共、不及異儀可隨其沙汰事。 一、於陣中馬を取放におゐては、其主人過錢百疋可出候事。 一、先手頭々並奉行人之儀は、馬上に而可致下知候事。 一、浪人衆、誰々によらず他家衆、當家の先手へ相加り候事一切停止之事。 一、喧嘩口論仕出輩有之ば、任法度之旨双方可成敗。若手ヲ過者於見逃者、其場に有合者可爲越度事。 一、御當家對御昵近衆、若致慮外者有之ば、於以來聞次第可爲曲事事。 一、侍・小者によらず家中走者、何之家中に有之共、於當御陣中捕候儀一切不可有之。自然曲人見屆に付ては、於當主人に預け置、後日に斷可申事。 一、於味方之地、下々迄狼籍不仕樣に可申付。宿賃以下如御定可相渡事。 右之條々、若違背輩可爲曲事。如件。 慶長十九年十月十三日利光(利常前名)在判 〔國事雜抄〕