利常小松に宿し、十五日大聖寺に入り、十六日越前麻生津に營せしに、横山長知はその子康玄・長治と共に來り謁し、復前田氏に臣事せんことを請へり。利常之を容れ、長知を金澤に留守せしめ、康玄と長治とをして從軍せしめき。長知は初名を三郎といひ、後大膳と改む。永祿中美濃國直江郷に生まれ、年十五の時父半喜長隆と共に前田利長に越前府中に仕へ、爾後毎戰從軍して功あり。利家の薨後利長が家康の疑ふ所となりしに、長知は家康に謁して辯解し、又慶長七年には利長の命を受けて太田長知を戮し、その遺領一萬五千石を併せて三萬石を食み、十二年武藏守と稱し、十三年山城守といへり。後利長の老して高岡城に在りし時、長知意に平ならざる所あり、乃ち十九年二月祝髮して名を夕庵道哲といひ、金澤松山寺に隱棲し、遂に仕を辭して叡山に逗りしが、今や再び利常に來仕して前祿三萬石を食み、臣僚の領袖に居れり。 利常は十七日麻生津を發し、終夜行軍の後、十八日朝近江の海津に著し、直に舟に乘じて琵琶湖を横ぎれり。この日使者名古屋に在りし家康の許に達し、利常の既に征途に上れることを告げ、十九日利常大津に至りて家康の來るを待つ。然るに家康は二十二日近江の永原に著せしを以て、利常はその地に赴きて之に謁せり。二十三日家康矢走より乘船して石場に上陸し、山科を經て京に入り、利常は大津に止りしが翌日こゝを發し、京を經て嵯峨に至り營し、二十九日嵯峨を發して天榊森に著す。時に前田氏の兵、附近の村落に放火して物資を掠奪するものありしかば、十一月二日代官板倉勝重は抗議を利常の重臣に致せり。案ずるに、利常の十月二十二日に認めたりと思はるゝ消息に、家康の明日膳所に來らんとすることを記したるものは、素より風説を述べるに止り、而して冬陣日記に、家康が二十二日膳所に著せりとするものも、この日永原に著したるを以て、利常その地に赴きて謁したるを過聞せるなり。當代記に、『十月二十三日加賀・能登・越中三國主松平筑前守[將軍聟]着陣、下京邊陣取、人數二萬餘。』といへるも、亦誤謬なるべし。 尚々何事なくがいぢんいたし可申候。 一書申入候。了中(旅)うちつゞきてんき候て、十九日にあふみのうちあふつまでまいり申候。御所(家康)樣は、今日あふみのうちながはら(永原)と申所へ御ざ候よし申候。明日はぜゞがさき、廿四日には京入なされ候やうに申候。我等は明日ぜゞがさきにて御目見へ申、明日のばんか廿四日のばんか京入いたし可申と存候。京にて我等ぢんどりの事、にしの京・さが・きぬがさ山、此三ところにて候べく候。我等事そう〱まいり申とて、御所樣さん〲御きげんよく、(以下磨滅) ちくぜん(利常) つぼね 〔篠島源兵衞清信傳書〕 ○ 尚々、百姓之家被致放火迷惑候由、爰元へ申來候。不實候へ共一筆申入候。以上。 急度申入候。上山城我等御代官所之内、松井・薪・大住・天神森・岩田、御家中衆被成陣取、放火並苅田被成候由、只今百姓元へ申來候。不實儀に候へ共、其元御陣取衆に可被成御尋候。爲其以書状申入候。恐々謹言。 板伊賀守(板倉) 十一月二日(慶長十九年)勝重在判 本安房守(本多政重)殿 奧攝津守(奧村榮頼)殿 人々御中 〔澤井文書〕