十一月二日利常天神森を發し、河内國飯盛に近き砂村に次す。三日石川忠總の兵平岡に至らんとして、前田勢の砂村にあるものに遇ひ、以爲く、加賀の兵甚だ衆し、若し彼等の悉く去るを待たば恐らくは期を誤らんと。即ちその營を横ぎりて進み、大久保權左衞門の隊も亦之に尾せり。前田勢大に怒りて喧囂せしが、權左衞門の處置當を得たりしを以て僅かに事なきを得たりき。五日利常砂村を發して高安に至り、六日小山に宿り、七日攝津國田邊に至りて閲兵し、八日・九日同所に在りて苅田を行ひ、十日矢野に至り、十三日阿部野に轉じ、十七日住吉に赴きて家康に謁せしに、家康は利常及び藤堂高虎を召し、地圖を按じて攻撃計畫を説明せり。冬陣日記に之を十八日に係くるものは誤なり。この日以後將卒皆甲冑を著せり。而して前田勢の本營は尚阿部野に在りしも、前軍は岡山口に派せられて敵に對峙し、利常は屢之を巡視したりき。二十一日利常領内の農民に令して、『國中藏入並給人地當年々貢米之事、代官給人留守たるによつて、令難澁百姓有之候ば、一類共に可爲曲言事。』といひ、以て藩及び諸士の收納に後顧の憂なからしむるを期す。 次いで十二月三日に至り、前田軍初めてその攻撃行動を開始す。この日家康、諸營を巡廻して前田軍に來り、利常に語りて曰く、この城急に薄るべからず、宜しく塹濠を穿ち掩堡を設けて長圍の計を爲し、大礮を城中に放ちて敵を苦しむべしと。利常乃ち之に從へり。然るに本丸の巽に方百聞許の出丸ありて、眞田幸村之に據りしが、幸村の兵その南なる伯母瀬の柵山又は笹山と稱する小丘に出でゝ、前田軍を銃撃するものあり。利常乃ち高所に登りて之を觀望せしが、諸將或はその危からんを憂へ、利常に勸めて山下に避けしめんとせしも、利常は泰然胡床に倚りて動かざりき。山崎長徳乃ち進みて曰く、今日風威甚だ凜烈、若し主將の病に冐さるゝあらば、我が軍の不利是より甚だしきはなし。請ふ共に低所に下らんと。利常之を容れ、徐歩してその所を去れり。是に於いて先鋒の將本多政重等、敵の爲す所を惡み、翌朝未明を以て伯母瀬山を奪取せんと期したりき。 大阪御陣之節、岡山に中納言(利常)樣御陣取、高き所に床机に御腰懸られ御座候處、眞田左衞門佐が陣より銕炮特之外打かけ申所、御近習衆、銕炮特之外打申候間、山陰え御下被成候樣に、誰かれ申上候へ共、御返事も不被遊候。然所え山崎閑齋參候而(長徳)、今日は風烈敷、自然風など御引候へば物前にいかゞに候間、山陰え御下被遊候へと被申上候へば、誠に是は風烈と被仰、山陰え御下被遊候。閑齋尤成被申樣と、何れも致感心候。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕