四日丑刻、政重等伯母瀬山を襲ひ、草を披きて敵を索めしも一兵の留るを見ず。偶山崎長徳隣營に在りて之を知り、政重が戰友を欺き獨功を樹てんとするなりとなし、急に手兵を率ゐて伯母瀬山の前方に出でしに、政重も亦長徳が先を爭はんとするなりと思ひて陣を進めたりしが、暗夜敵城との距離を測る能はず、誤りて眞田丸の崖下に迫れり。是を以て士卒皆大に驚けりといへども矢丸を防ぐの具を有せず、聲を潛めて塹濠の側に伏したりき。是の日城將南條光明は、藤堂高虎に内通するの約ありしが、事露れて敵の誅する所となる。然るに高虎は未だ之を知らざりしを以て、光明に策應せんが爲に兵を進め、井伊直孝・松平忠直之に次ぎ、利常の臣奧村榮頼も亦之に尾したりき。時に黎明冥霧深く鎖したりしが、日出づるに及びて注視すれば亦城濠の側に在るに驚けり。城將幸村之を見て銃丸を雨注せしめしかば、前田氏の士卒死傷するもの算なく、銃隊長大河原助右衞門もこゝに殪る。助右衞門の子四郎兵衞大に憤激し、進みて鎧の胸を叩き、城兵に呼びて曰く、今の死せし者は我が父なり、請ふ彼と共に黄泉に至らしめよと。亦丸に中りて命を殞せり。利常、士卒の令を待たずして進みしを怒り、使を遣はして軍を收めしめんとせしも、後隊荐りに競進するを以て前軍爲に退くこと能はず、皆城壁の下に潛伏して矢丸を避けたりき。利常又森權太夫を遣はして命を傳へしめしに、權太夫は黒幌を負ひ、單騎鞭を擧げて戰線に向かへり。後その幌を檢するに彈痕四十七八に及べりといふ。富田重政の屬將に小幡勘兵衞景憲あり。景憲背に銃將才伊豆を負ひ、城に向かひ大聲して曰く、才伊豆傷を蒙りて退かんとす、卿等何ぞ追はざると。遂に平野彌次右衞門を殿として退却せり。彌次右衞門の僕五左衞門、矢石の中に立ちて主を護り、爲に十八創を得たりしも、尚自若として動かざりしかば、城兵之を感じてその名を問ふ者あり。五左衞門曰く、我は平野氏の賤奴なり。然れども今や我が主我の勇武を賞し、授くるに姓氏を以てせり、是を以て平野五左衞門といふべしと。即ち傲然歩を移して還る。時に家康軍を巡りて茶臼山に至り、その兵の濫に進みたるを叱責せしかば、諸軍初めて退きしも、奧村榮頼の一隊の如きは、全く潰亂して多數の犧牲を出したりき。孝亮宿禰日記に、『松平筑前勢三百騎死、此外雜兵死者不知其數之曲有風聞。』といふもの即ち是なり。この日馬廻組・小將(コシヤウ)組等の士にして、軍律を破りて先鋒中に混じたるものあり。利常之を檢して阿井八兵衞・山田大炊二人に自刄を命ず。而して伯母瀬山は我が軍の占領する所となりしを以て、先陣をこゝに進め、利常の本營は之を木野村に移せり。夜に入りて家康、本多政重・山崎長徳等を召し、前田軍の擅に攻撃を加へし所以を詰りしに、政重等は、これ青年輩の拔け驅したるに過ぎずと辯解して止めり。 大阪御陣の時分、御家の御人數眞田丸え附申節、言(コト)の外朝霧深く行先見え不申に付、城の土手へ行當り申躰に候。其節眞田はいまだ臥り居申候に付、寄手近付候哉人音致候旨案内仕候へば、中々のせ申事にては無之候、下知次第に心得候へとて、狹間一つに鐵炮六挺づゝ仕懸、寄手前後の間を打切候へとて、頻に打せ申候。木を將棊の駒形にして、糸につなぎ首に懸有之、働よきものへは一つ宛褒美に遣し申候。御家の御人數は近付兼、引上げ申候。御先手は何共引取がたく、土手の下につき、何れもふして居申候。中納言(利常)樣には、何とて引取不申哉と御怒り被遊候。此時森權太夫御使番相勤候に付遣之、早速引取候樣に下知可仕旨仰付、罷越見申處、右の趣にて何とも引取がたく、權太夫も土居下に伏有之候。其時小便も立てば鉄炮の氣遣にて仕がたき程に候處、權太夫存候は、此儘にて小便仕候はゞ、たれ候抔と後の批判可有之と存、城の方へ向ひ立小便致し、やう〱御人數引取申候。御使番は御定の黒母衣掛て居申處、鐵炮にて打ぬかれ、母衣ずたずたに成申候仕合にて、其身鐵炮にも中り不申候。其時のふり言の外宜敷、以後々々迄も中納言樣被仰出御感被遊候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕