この後戰局は急に發展することなく、前田軍に於いても、十二月十一日大小銃炮を伯母瀬山に集めて、城中に彈丸を注ぎし外見るべき戰鬪行爲なかりき。同日家康は佐渡代官及び甲斐代官を召し、各所屬鑛山坑夫を率ゐて、坑道を藤堂・井伊・前田三氏の陣地より掘鑿し、城郭の一部を破壞せんことを命じたりき。是を以て藤堂・井伊の二方面は既に土工に着手せりといへども、前田軍の陣地には未だその事なく、以て二十日和議成立の時に及べり。 慶長二十年(元和元)元旦利常は尚木野村に在りしが、二日秀忠の岡山の陣に至りて新正を賀し、爾後屢將軍に謁し、又媾和條件に基づく大阪城の破壞工事を巡見せり。同月二十一日戰役の事務略終りたるを以て、利常は將士の功ある者を賞し、二十四日木野村を、發して京都本能寺に着し、二十七日には本願寺の家宰下間少進の饗宴に列し、且つ能樂を觀覽せり。蓋し前田氏の領國は一向門徒の巣窟たるを以て、特に之を厚遇して宗門の安全を希ひしによるなるべし。利常乃ち二十九日又能樂を奏せしめて之に報いたりき。次いで二月朔日、利常は京を發して近江の和邇に至り、二日今津、三日越前疋田に宿し、四日今庄に於いて越前侯松平忠直の饗を受け、五日加賀の大聖寺に泊り、六日を以て金澤城に凱旋す。