利常の在陣中に於ける領國内の事情は、之を明らかにすべき資料を得ずといへども、利常夫人が侯の安否を憂へ、用人興津内記を越中の埴生八幡宮に詣でしめて戰捷を祈願し、社人をして護符を上らしめたる事あるが如きは、之を文書に徴して知るを得べし。又戰時中各地に戍を置けることは、既に之を言へるが如くなりといへども、尚土民の盲動せんことを慮り、各郡一向宗大坊の寺主を金澤に居らしめ、彼等を質として配下各寺院に各その門徒を取締らしめたるが如く、この事珠洲郡妙嚴寺文書によりて證すべきなり。 巳上 一書令啓候。然者兩御所樣・筑前樣、御三人御陣之御祈禱、從上(利常夫人)樣被成度之由被仰出候間、其元於御神前御祈念候而、御守札可有御上候。此度之義ニ候間、隨分被入御情候事肝要候。尚追而可申入候。恐々謹言。 慶長十九年興内記(興津) 十一月廿四日忠治在判 埴生神主殿 御宿所 〔越中埴生八幡文書〕 ○ 能州鈴郡道場方證人(珠洲)の事 一、自身定詰うかひ妙嚴寺 右番之事、無滯自身相詰可申候。自然相煩申候者及御理ニ、於御同心者實子を指上可申候。然者此連判之者共之儀、奉對公儀少も企非分仕間敷候。並門徒中町人百姓によらず、於當御陣中ニ或いつきを催或公儀を背、不屆之儀無御座樣ニ可申聞候。若不屆之子細御座候ば、誰々によらず早速可申上候。萬一見かくし聞かくし申に付て者、此連判のものども可被成御成敗候。仍門徒中御請状如件。 慶長拾九年十二月七日うかひ妙嚴寺在判 いゝ田乘光寺在判 若山正福寺在判 正ゐん西光寺在判 松波高福寺在判 上戸善慶寺在判 小木妙樂寺在判 覺性寺在判 光行寺在判 光樂寺在判 淨福寺在判 慶覺在判 善海在判 永誓寺在判 〔妙嚴寺文書〕