七日敵兵皆城より出でゝ戰陣を張り、眞田幸村は茶臼山に、毛利勝永は天王寺に、大野治房は岡山に在り、而して大野治長等は後軍と爲れり。利常亦久寳寺より岡山口に進む。既にして午刻に近づくや、秀忠の本營なる歩士の携ふる虎尾鞘の鑓百本、悉くその鞘を去る。日比小兵衞乃ち利常に告げていふ、合戰將に初るべしと。利常小兵衞・津田勝左衞門に命じて歩士の長柄の鞘を去らしむ。時に越前の先鋒本多富正・吉田好寛等、敵將眞田幸村の軍と交刄す。利常之を視て亦急に攻撃を加へしむ。是に於いて本多政重・横山長知・長連龍・山崎長徳・富田重政等の諸隊、皆喊聲を揚げて先を爭ひ、殊に伴雅樂助・篠原織部・野村左馬允・丹羽織部等の勇士は、鑓を揮ひて大野治房の陣を襲ひ、北ぐるを追ひて進みしに、敵の後軍之を見て瓦解し、利常の兵は隍塹を越えて城壁に攀登せり。大坂の士北村五助等乃ち矢丸を集めて之を防ぎしかば、前田軍の死傷甚だ多かりしも、勇を皷して進み、その斬馘する所實に三千二百餘級に及びたりき。 是の日將軍秀忠は嚴に軍令を定め、その麾下左右の士をして斷じて先登すること勿らしめき。然るに石川重之は、殊功を樹てんと欲したるを以て之を喜ばず、曉に乘じて窃かに營を脱し、詐りて本多政重の陣を過ぎ、遂に岡山口に至りて機を待てり。既にして戰の始るや、重之先づ奮鬪して敵一人を倒しゝに、前田氏の兵群至してその首級を奪ひしかば、重之は更に進みて二人を斬りしに、偶利常の中軍を率ゐて來るに遇へり。重之乃ち路を遮りて呼びて曰く、こはこれ幕下の使者なりと。衆皆惧れて之を避けしかば、重之は直に利常の馬前に至り、その獲たる二首級を示して曰く、余は石川嘉右衞門なり。去冬本多正純の許に在りて初めて侯に謁せり、侯能く余を記するや否やと。利常之を見、往時の邂逅は尚之を忘るゝことなし、余は卿が武勇絶倫にして、這箇の戰功を樹てたるを祝す。然りといへども事今太だ急なり、卿も亦速かに去るべしといひて、その馬を進めたりき。重之後に軍律を犯したる罪に座して、その秩祿を浸收せられ、洛東に閑棲して餘生を送れり。丈山即ち是なり。是の日利常書を裁して、戰捷を金澤に報ず。 急度申遣候。今日[七日]大坂表へ御人數を被寄、將軍樣御先手我々に被仰付候に付て、岡山に敵數多有之候分を即時に追崩、本丸まで人數を遣、敵不殘討取、即時に火を懸悉燒崩申候。爾御所樣御感不斜候。於拙子者可御心安候。此由芳春院樣・玉泉院樣へ委可申上候。謹言。 筑前守 五月七日(元和元年)申刻利光(利常)在判 奧村伊豫守殿 奧村備後守殿 興津内記殿 〔前田家文書〕