この役前田氏の臣屬にして功を立てたるもの多かりしが、就中最も稟性の奇矯を以て名を顯したるものを安見隱岐と爲す。隱岐は初名を右近といひ、諱は元勝。西國の産にして前田氏に仕へ、祿一萬石を領せり。五月七日の戰に前田軍の城門に肉薄せし時、城兵出でゝ大に邀撃せしかば、攻撃軍は退却の止むを得ざりしこと三次に及びたりしが、隱岐は錣を傾けて敵に對し、苦鬪して一歩も動かざりき。是を以て戰友皆奮激し、遂に進んで城門を破る。既にして隱岐敵と格鬪して將に刺されんとせり。偶伴雅樂助傍を過ぎて之を見、力を隱岐に戮さんかと問ひしに、隱岐は喘ぎながら『侍は人々のかせぎぞ、自分の働をせよ。』と應へたりき。雅樂助彼の剛情を憎み、馳せて他に至らんとせしも、以爲く、隱岐は既に敵の爲に敗を取りしなるべし、果して然らば我は彼の爲に仇を報いざるべからずと。即ち先の所に至りて隱岐を索めしに、彼は敵首を挈げて起ち、雅樂助を見て、『何のなぐさみもなし、鷹がつかはれぬ。』と呟けり。蓋し格鬪の際、敵の爲に左手の二指を切られたるに因る。世泰平に屬したる後、隱岐は無聊に堪へずとなし、暮夜巷衢に立ち、人の刀を帶びて來るものを見れば、乃ち鬪爭を挑みて之を斬れり。寛永十三年利常淺野光晟の邸に至る。光晟の室は即ち利常の女滿姫なり。夫人問ひて曰く、嚴君の領内方今無事なりやと。利常曰く、唯勳臣相和せず、動もすれば余の患を爲すあるのみ。安見隱岐の如きはその尤なるものにして、常に黨を立てゝ爭訟を絶たず。頃者老臣をして之を諭さしめしも尚能く從はざるを以て、余將に之を法に致さんと欲すと。夫人茗を利常に勸めて又曰く、之を法に處するは最も善し。然りといへども隱岐の如きは、須く輕きに從ひて流に處するを可とせずや、近年都下の士騷擾を好む、一朝緩急あらば隱岐術起用すべきなりと。利常驚嘆して曰く、女丈夫なり、若し汝にして男子ならしめば、余は將に三州の封を讓らんと欲すと。この譚夫人の慧敏を稱するものなりといへども、亦以て隱岐の勇武普く世人の推す所たりしを見るべし。既にして利常老臣をして隱岐を召さしむ。隱岐以爲く、これ余に自裁を命ぜんとするものなるべし。余固より死を恐れずといへども、余にして獨冥府に赴くは、興味の頗る索然たるものなきにあらず。余はその宣告者の本多氏と横山氏たるとを問はず、必ず先づ之を刺さんのみと。乃ち殿中に至り皆を決して老臣に對す。本多政重乃ち彼に命じて座を進めしめ、一書を懷に探りて之を讀む。曰く、『其方事、大坂の働御恩に思召すといへども云々、』と。隱岐之を聞きて感激に堪へず、謹みて命に服し、遂に能登島に謫せらるといふ。