然りといへども、利常の屈從は、錐を嚢中に藏せるが如く、その鋭鋒時に突如として露るゝことなきにあらざりき。初め利常に異圖ありとの流言府下に行はれし時、幕吏頗る之を危疑せしに、井伊直孝獨揚言して、萬一前田氏にして反旗を飜さば、余をして之が討伐の任に當らしめよ、一朝にして蹂躙せんこと石を以て卵を摧くが如くならんのみといへり。利常傳へ聞きて、意に直孝の輕忽謹まざるを惡む。異日利常隱棲の後登營せしに、諸侯列座の中に於いて直孝は、大坂の役に從へるものその功誰か老夫の右に出でんやと言ひて、傍に人なきが若くなりき。利常徐に直孝に謂つて曰く、大坂の役足下間を窺ひて敵城に肉薄せんとせしに、敵の壁下に在るもの強勢にして遂に目的を達し能はざりしこと、恐らくは足下の今に至るまで遺憾とする所なるべし。然らば足下の戰功を誇るもの果して孰れにありとするか。且つ今日將軍若し余に命ずるに足下を討伐するの任を以てせば、余は朝陽未だ昇らざるに足下の軍を殲滅すべし。これ足下の余に倣はんと欲するも、決して企及し得べからざる所。何となれば余の士卒を養ふこと足下に倍蓰すればなりと。直孝之を聞きて色を作し、將に大事に至らんとせり。時に大聖寺侯前田利治末班に在りしが、衆を排して趨り進み、直孝の右に座を占め、利常の刀を持して別室に在りし青山宗長も亦疾驅して來り、織部こゝに在りと叫びてその刀を捧げたりき。而して利常は毫も聞かざるまねして尚靜かに座に在りしが、閣老酒井忠勝その異變を生ぜんことを慮り、衆に謂ひて曰く、今日將軍疾ありて諸侯を引見する能はず。小松中納言先づ歸らば、余輩請ふ之に從はんと。小松中納言は即ち利常を指す。利常乃ち立ち、是に因りて幸に事なきを得たり。 加賀藩が幕府より難詰せられたる翌寛永九年正月、前將軍秀忠は遂に薨じたりき。時に江戸の物情頗る恟然、將に異變の生ぜんとするが如く喧傳せられしが、市人加賀藩邸の沈靜平日に異ならざるを見て、その堵に安じたりといふ。後秀忠の遺物を諸侯に分かつに及び、利常は松井貞宗の刀及び銀一萬枚、世子光高は中川義弘の刀を受く。