大姫來嫁の結果として、加賀藩の前途漸く洋々たるものありしかば、利常は始めて枕を高くして寢ぬるを得るに至り、力めてその機鋒を藏め、悠々太平を樂しむの状を爲せり。利常先に寛永八年十二月を以て江戸に上りしより、未だ曾て一たびも國に就かざりしが、十一年家光の將に京師に朝せんとして、その期を諸侯に戒むるに及び、四月下旬歸城して暫く政務を視、六月廿九日又金澤を發して大津に舘し、七月十八日共に禁闕に赴き天機を奉伺せり。この行、世子光高は六月廿三日江戸を發して京に赴き、八月三日京を發して江戸に歸る。次いで八月利常は大津より直に歸國し、城内玉泉院丸の土工を行ふ。玉泉院丸は、利長夫人玉泉院の居舘ありし地なるが、利常はその遺址を平かにして、園囿を修めしめたるものにして、また逸豫を事とし軍國に念なきを示さんが爲なりしなり。此の時多く石材を能登より海運に附し、之を宮腰より陸上せしめき。 金澤へ御着の翌日より、御普請所へ毎日御出被成、京都より被召寄たる劍左衞門と申山作りに被仰付、築山・泉水・御亭等の品々前代未聞成御事也。能州より宮腰へ大石共著岸す。五百人千人宛修羅にのせてとらせらる。其石一つ宮腰道の半途にて角(カド)缺ければ、其儘捨置ぬ。御家中より植木共指上る。鶴來山・二俣山・能州より、在々所々尋さがして、かゝりの能きうゑ木・石等を被取寄。御前に於て御直に被成御普請なれば、其日〱の承りを以諸奉行勤ける程に、惣御奉行は殿樣なり、人足は御相撲の者五十人、百人者と名付て御鐵炮の者共也。御目通の外は役人御小人也。百人者と申は、去る寛永七年に御本丸の御露地に御數寄屋被仰付、共時御鐵炮の者の内を、器量能若者共百人勝(スグ)りて、諸の足輕役御免被成、佃源太郎を頭に被仰付、御前にて御直に被召仕、何茂出頭有度儘のだてを致し、餘り御懇の故に、大橋市右衞門に被仰渡、一人に銀二百目宛御色代にて被相渡、利なしに被仰付。是を色代のなげかしの二百日銀と申ける。(中略)。此百人者と御相撲取五十人と、輕々敷出立にて御意に隨ひ働きければ、頓て御露地出來す。 〔三壺記〕