家光また嘗て内書を利常に遣はし、豫め期を定むることなくしてその邸に臨むべきを約せり。利常乃ち茨木小刑部に命じて作事奉行たらしめ、本郷邸の園池を修め、富士見亭・麻木亭・三角亭・鳩亭の亭榭を設けて趣致を添へたりき。寛永十七年三月二十八日家光鷹を近郊に放ち、歸路藩邸の通用門より入りて書院に臨みしに、利常は兒小姓を踊子として、その舞踏を台覽に供し、盛饌を備へて之を饗せり。將軍のこの臨邸は、舊來加賀藩の諸書多く十五年二月十八日に在りとせり。然れども徳川氏の記録を見るに、その日將軍外出のことなきが故に、恐らくは誤傳なるべし。 三月二十八日(寛永十七年)午下刻御鷹野(家光)に出御、夫より直に松平肥前守(利常)下屋敷え御成、酉の刻還御。肥前守爲御禮登城可仕之處、依爲病後無用之由、酒井讃岐守(忠勝)傳上之旨。依之息筑前守(光高)・淡路守(利次)御禮に登營。 〔天寛日記〕 是より先、寛永十三年正月幕府は利常及びその他の諸侯に課し、江戸城の外郭闉闍及び石壁を作らしむ。利常、世子光高及び三子利治を伴ひ、親ら場に臨みて工を督し、石材を伊豆より運輸せしめ、心を傾けてその完成を圖りたりしに、家光は來りて之を觀、大に其の勞を犒へり。抑幕府が諸侯に夫役を課することは、その傳統的政策の一にして、幕府が自ら支出せざるべからざる經費を除き得ると同時に、諸侯をしてその蓄財を糜散せしめ、假令不逞の念あるものも、到底干戈を動かす能はざらしむるを目的とせしなり。是を以て鉅封前田氏の如きは、夙く家康の時以來その役務に服せしめられしこと尠からず。即ち慶長八年二月幕府が江戸の市坊を經營し、日本橋を架し、神田山を崩し、海面を埋立てゝ住宅地とせし時には、諸侯多くその役に從ひしが、加賀侯利長も固よりその一人なりき。次いで同十二年三月、幕府又駿府城經營のことを利常に囑せしに、五月利長は金澤の老臣及び工事に從ふ諸吏に、法度定目十七條を頒ちて之に服せしめしことあり。十五年閏二月幕府西國の諸侯に命じ、家康の子義直の名古屋城を修造せしむ。利常乃ち篠原一孝をして金澤城を留守せしめ、自ら名古屋に至りて工事を督せしが、その築造せし所甚だ多かりき。十六年三月幕府禁裏修營の役を諸侯に課せし時にも利長・利常二人之に與り、十九年正月家康の子福島城主松平忠輝の高田に移封を命ぜられしとき、工を東北諸侯に命じたりしに、利常は亦之を助けたりき。大坂兩陣の後に在りては、暫くこの事なかりしが、元和六年正月には大坂城の修築の命ありしを以て、利常は本多政重・横山長知を遣りてその役を督せしめ、而して寛永十三年に又江戸城の工事を命ぜられしこと先に述べたるが如し。加賀藩が此く頻々たる課役に應じて、而も未だ曾て藩の財政を攪亂するに至らざりしもの、當時頗る蓄積の豐富なりしに依らずんばあらざるなり。 慶長八年御城廻り御普請之節、高拾萬石に付百人宛之積を以人夫差出申候。此趣松平安藝守方より書付出し申候。淺野左京大夫相掛り之組、羽柴左衞門大夫・越前宰相・下野・加賀中納言(前田利長)。 〔御手傳覺書〕 ○ 慶長十二年丁未五(三)月[金澤進發なれば是より先に命ぜらるなる然れども皆五月とあり。故暫從之。]駿府城經營の事を神君より瑞龍公(利常ノ誤)へ命ぜらる。 〔加賀藩歴譜〕 ○ 慶長庚戌十五年正月二日、家康公名古屋に至り給ひ、以牧助右衞門信次繩張有。西國北國の諸大名に命じて尾州名古屋の城を築かせらる。同閏二月八日大樹秀忠公命を承、此間駿府に有ける西國衆名古屋御普請のため尾州に赴く。今度尾州名古屋御城御普請等御手傳被命諸大名衆。 加賀能登本名前田松平筑前守利光(利常) 百三拾四萬貳千五百拾石三割加て 本百三萬貳千七百石也 〔尾陽始君知〕 ○ 慶長十六年春三月、從征夷大將軍氏長者淳和奬學兩院別當從一位前右大臣源朝臣家康公被仰出、禁中御造營之人數帳。 六十八萬石越前少將殿三十萬石越後少將殿四十三萬石尾張右兵衞督殿 三十萬石徳川常陸介殿十六萬石羽柴肥前守(前田利長)殿百三萬三千石子息松平筑前守(前田利常)殿 〔禁裏御普請帳〕 ○ 正月(慶長十九年)越後國福島之城、水入之城にて有之間、高田へ御引。御普請被仰付候衆、松平筑前守(前田利常)・米澤中納言云々。 〔慶長年録〕 ○ 今年(元和六年)大阪城普請、日本從諸大名相動。從加州爲奉行永多安房・横山山城登る。 〔政鄰記〕 ○ 寛永十二(三)年、江城二の曲輪の惣構橋臺は石垣にて、いまだ手もあはざれば、天下の諸侯へ御願にて、一つ橋より雉子橋・神田橋・常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・數寄屋橋・姫橋・幸橋迄の堀の内、皆石垣に丁場を割付、國々より奉行人足群集して築立出來す。加州より右の外に筋違橋の升形を石垣に築立被成ければ、利常公・光高公・宮松丸(利治)樣毎日御普請場へ出させられ、手々に手木を持給ふ。手木の柄を菖蒲皮にて包み、中にも宮松丸樣いまだ御幼童なれば、猩々皮(緋)にて卷にけり。加州より人持・物頭・小奉行數多罷越す。三ヶ國の役人を伊豆山へ與力・侍を添て大勢被遣、石を切せ舟に積廻し、靈岸島・八町堀・深川近邊へ寸地もなく上置て、車にて引も有、修羅にて引付るもあり。珍らしからぬことなれども、本多房州政重・横山城州長知は御老中・御目付衆に對し挨拶共言語の及ぶ所にあらず。將軍家も出御有て、利常公御父子へ御懇の上意也。本多・横山兩人へも骨折の御目見被致、比類なき面目なりと諸人申あへり。 〔三壺記〕