天正十一年盛政賤ヶ嶽の戰に敗るゝに及び、秀吉は尾山城を收めて前田利家に與へたりしを以て、利家七尾城より移りて之に入りしが、殿閣の建築未だ起らず、利家の居舘は即ち本丸の地に在りし金澤御坊の佛殿を假用したりしが故に、その棟木に結ばれたる梱包より阿彌陀如來の像を發見したることありて、利家夫人は之を持佛とせしが、後西本願寺の支院に與へて本尊となさしめたりと傳ふ。次いで高山南坊の利家に來仕するに及び、その設計に因り小坂(ヲサカ)口(後尾坂に作る)を以て城の大手とし、石川口を搦手と定め、文祿元年二月利家の大坂に在りし時、金澤に留守せる利長に命じて、巨石を戸室山より採り、土壘を改めて石垣を築かしめき。然るにその工事中東方の石垣崩壞すること兩度に及び、資財と力役とを徒費すること多かりしかば、利家は篠原一孝を歸藩せしめ、その指揮によりて築造を遂行せしめんことを利長に勸説せり。科長之を聞きて悦ばず、越中守山城に入りて偃息したりしが、一孝は來りて工事を督し、石を積みて全高の八分に達するに及び、稍壁面を後退せしめ、以てその功を成せり。利長後に石垣の中間に一階段の状を爲せるを見て大に怒りしも、既に竣成せるを以て亦如何ともすること能はざりき。是より後城内二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸・北ノ丸等、皆藩臣中巨祿の者の邸地に當てられ、甍棟相接して頗る壯觀を呈するに至れり。 利家の薨後、慶長四年九月利長大阪より金澤に歸り、幾くもなく越中婦負郡に放鷹せしに、偶上國に在りては、利長が不軌を圖らんとするを以て、家康將に兵を出して之を征せんとするの風聞あり、人心爲に恟々たりき。利長報を得、直に金澤城に歸りて群臣と議し、横山長知を派して家康に辯明する所あらしめ、また城外の塹濠を鑿ちて萬一の異變に備へたりき。その土工は高山南坊之を總監し、工區を分かちて士普請とせしかば、僅かに二十七日間にして成れり。塹濠の位置は、城を距ること百聞より二百五十間に及び、今の小尻谷町に起り、小將町・賢坂辻を貫き、味噌藏町片原町の西側に沿ひ、枯木橋を經、橋場町の西裏より淺野川に達する長十一町三十間と、上松原町・下松原町・青草町より下近江町を經、彦三一番町・同二番町の南端を過ぎ、下新町裏より主計町に至りて淺野川に達する長さ十四町五十間のものとの二條あり。後世内總構と稱するもの即ち是なり。