城内に於ける殿閣築造の次第に至りては、今之を知る能はずといへども、思ふに利家の入城以後、その豐富の資を傾け、大阪・桃山・江戸等の華麗に倣ひて頗る完備するに至りしなるべし。然るに慶長七年十一月晦宇賀祭の夜、天守閣に雷火起り、烈風の爲に大臺所に延燒したるを以て、本丸の屋宇悉く烏有に歸し、火藥庫も亦爆發せり。常時城南の壘側に三十三間の的場あり、その外に櫻の馬場あり、更にその外に堂形と稱する米廩ありて、高畠平右衞門の邸直にこれに接したりしが、平右衞門は火災の起るを見るや走せて城内に入り、利長・利常の二夫人を奉じて興津内記の居に避難せしめ、侍女は之を中川光重の家に移しゝに、利長・利常も亦二ノ丸・三ノ丸の臣邸に入れり。災後殿閣新營の工を興し、明年春に至りて竣れりといへども、この時以後又金澤城に天守閣を設くることなく、三層の櫓を以て之に代ふることゝせり。諸書或はこの火災を慶長十年に在りとするものあり、或は七年と十年との二次に在りとするものあれども、恐らくは十は七の誤寫なるべしと思はる。越登賀三州志にも亦七年説を採れり。 金澤城の防禦線たる外總構の成れるは、その後慶長十五年に在りき。時に利常幕府の命を受けて名古屋城の經營を助け、篠原一孝を金澤に留守せしめしが、諸士の閑暇多きを見、乃ち彼等に課して之を掘鑿せしめしなりといふ。外總構は之を二區に分かち、東外總構は八坂より起り、材木町の西を經、小鳥屋橋より淺野川に通ずるものにして、その長さ十二町四十間、幅一間乃至二間半とし、西外總構は廣坂通の南方なる疊屋橋より起り、宮内橋を經て厩橋に至り、鞍月用水に合し、香林坊を過ぎ、長町川岸に沿ひ、四ツ屋橋に至りて鞍月用水と別れ、之より更に掘鑿して圖書橋を過ぎ、安江町升形を經、鍛冶片原町・瓢箪町を經て淺野川に達するもの、長さ二十六町三字を間、幅五尺乃至二間とす。外總構の成るに及び金澤城の防禦は、最前線として淺野川・犀川を利用する外、東北に在りては内總構の枯木橋、西北に在りては外總構の升方、西南に在りては又鞍月用水の香林坊等を最も要害の地點とせり。