金澤城は元和六年十一月二十四日長局の失火によりて再び災に罹れり。この時利常夫人は難を興津内記の邸に避け、利常は北ノ丸なる山崎光式の邸に入りしが、翌日更に横山長知の家に轉ぜり。因りて翌七年五月二十四日地鎭祭を執行し、次いで成る。この時城地の繩張稍變更せらるといふ。一説にこの火災を元和三年に係くるものあるは誤謬にして、元和六年十二月二十四日とするものも亦非なり。 御本丸表・奧方の御屋形のみ燒失して、類火の屋形はなかりけり。神谷式部・大橋九郎兵衞・中村刑部等に被仰渡、道具に少しも無構、人を損ず間敷旨御意(利常)あり。隨分四方の戸障子・門々を打破り、男女共に引退き、玉泉院(利長夫人)殿方へ入る人も有、村井飛騨屋敷へ立退もあり、當分御借家にて御越年被成けり。晝ならば難なく火は可消所に、夜中の儀也、奧方より出る火也、御賄道具・當分御用の家財共は燒けれ共、人にあやまちなく、御機嫌もよかりければ、誰あやまりと御しかり可被成人もなかりけり。近々御作事可被仰付と思召所に、結句幸の樣に思召こそ目出度けれ。年頭の御禮に波著寺法印登城して、御道具の儀は不苦、上々樣方御恙無御座段目出度奉存由申上る所に、利光公(利常)の御意には、人も不損、道具の儀も構なし。何よりをしきは、其方より上たる火ぶせの札を不殘燒たるをしさよと御意の所に、波著寺申けるは、定て御身に替り申にて可有御座と御答へ申ければ、さもあらんと御笑被成けると、後々迄申傳へけり。 〔三壺記〕 ○ 尊書拜見忝奉存候。如貴意當城不慮之火事致出來、無是非仕合御座候。被入御念早々御飛脚、恐悦至極奉存候。猶從是可得御意候。恐惶謹言。 十二月十七日(元和六年)松平筑前守(利常) 常眞(織田)樣 貴報 〔元和六年書状案〕