金澤城の廣袤は、東西六町十五間南北六町八間にして、面積九萬一千六百三十坪、その内塹濠三萬二千百三十六坪とし、提封の大なるに比するときは、寧ろ地域の小に失するものあり。是を以て藩政の初期に、重臣の邸を城内に置きたること他諸侯の城郭と同一なりしは、三丸に村井長頼あり、新丸に岡島一吉あり、越後第の地に富田重政ありたる等によりて之を知るべしといへども、後此等を市街樞要の地に散在せしむるに及びて、自ら金澤城制の上に於ける一特徴を爲せり。かくの如く、郭内に藩侯の居舘以外纔かに公衙及び倉廩を有するのみにして、侯族重臣の邸宅を城外に配置したるものは、幾分軍事的見地によるべしといへども、その主要なる理由は郭内の狹少なるが爲已むを得ざりしにより、而して郭内の狹少を感ぜしば、元來本城が前田氏の分限に比例して設計せられたるにあらずして、佐久間氏の時の規模を襲用したるものなるをその一とし、前田氏がこゝに居城を定めたる後、食邑大に加り、百度之に伴ひて膨脹したるをその二とし、寛永の災後藩侯の居舘を二ノ丸に定むるに及び本丸の地は平時全く無用となり、爲に大に利用し得らるべき地域を減じたるをその三とすべし。但し本丸以下各郭の面積及び塹濠の廣狹等に至りては、今その詳を得る能はず。蓋し軍事上秘密を嚴守せられたるが爲なるべく、唯纔かに寳暦五年幕府の巡見上使松平頼母・大河内善兵衞の來りし時、藩より提出したる記録ありて、金城深秘録に載せられたるを見るのみ。その後寳暦九年の火災に城中悉く烏有に歸し、樓櫓多くは再興せらるゝことなかりしなり。 金澤城郭廻櫓數之事(寳暦五年) 本丸廻五町拾六間○同所三階一ヶ所、上ノ重二間四方、中ノ重三間四方、下ノ重五間四方○同所長屋一ヶ所○同所申酉櫓一ヶ所、二重、上ノ重三間四方、下ノ重五間四方○同所戌亥櫓一ヶ所、二重、上ノ重下ノ重右同斷○同所丑寅櫓一ヶ所、二重、上ノ垂下ノ重右同斷○同所辰巳櫓一ヶ所、二重、上ノ重下ノ重右回斷○同所中櫓四ヶ所、但四ヶ所共三間ニ五間○同所土藏三ヶ所○同所門五ヶ所○同所建坪四百坪、右は櫓並長屋門建坪に御座候○同所矢狹間六拾壹○同所鐵炮狹間六拾壹。 二ノ丸郭廻六町四拾五間○同所櫓二ヶ所、但二ヶ所共二重、上ノ重二間ニ三間、下ノ重三間ニ五間○同所櫓一ヶ所、二重、上ノ重二間ニ三間、下重三間ニ五間○同所櫓一ヶ所、二重、上ノ重二間ニ四間、下ノ重三間ニ五間○同所長屋五ヶ所○同所土藏九ヶ所○同所居佳之屋鋪一ヶ所○同所門拾貳ヶ所○同所建坪千九百拾三坪、右者櫓門並住居之所等建坪に御座候○同所矢狹間三拾貳○同所鐵炮狹間三拾貳○同所から堀一ヶ所、長五拾六間、幅五間。 玉泉院丸郭廻四町拾八間○同所櫓門一ヶ所○同町土藏二ヶ所○同所建坪百六拾六坪、右櫓門等建坪に御座候○同所矢狹間拾七〇同所鐵炮狹間拾六〇同所外堀一ヶ所、長折廻百五拾七間、幅十五間、深五尺、但此堀搦手口の外堀え續。 三之丸郭廻九町九間○同所櫓一ヶ所、二重、上ノ重三間半四方、下ノ重六間半四方○同所櫓二ヶ所、但二ヶ所共二重、上ノ重三間四方、下ノ重五間四方○同所長屋五ヶ所○同所土藏五ヶ所○町所門拾貳ヶ所○同所建坪六百八拾五坪、右櫓並長屋門建坪に御座候○同所矢狹間百六拾○同所鐵炮狹間百五拾六〇同所堀一ヶ所、長折廻百九拾七間、幅四間、深三尺○同所堀一ヶ所、長二拾間、幅四間、深三尺○同所外堀一ヶ所、長百拾壹間、幅五間、深六尺○同所外堀一ヶ所、長六拾九間、幅五間、深六尺、但此堀大手外堀に續○同所櫓一ヶ所、二重、上ノ重二間四方、下ノ重二間半四方○同所櫓三ヶ所、三ヶ所共四間四方○同所長屋三ヶ所○同所建坪貳百四拾九坪、右櫓門並長屋建坪に御座候○同所外堀一ヶ所、長折廻百五拾間、幅六間、深六尺○同所外堀一ヶ所、長折廻百貳拾八間、幅六間、深六尺、此堀搦手口之外堀え續○搦手口之外堀一ヶ所、竪三拾間、幅四拾間、深六尺、但此堀大手外堀え續○同所外堀一ヶ所、長百五拾間、幅三拾八間、深八尺、但此堀片々方幅拾八間○同所外堀一ヶ所、長貳百六拾五間、幅六間、深五尺、此堀玉泉院丸外堀え續。 城内井戸三拾八○城内橋三ヶ所○城外惣門拾壹ヶ所○城外郭廻貳拾三町五拾七間○天守無御座候。 〔金城深秘録〕 金澤城及び附近文政六年より文久二年に至る 金沢城及び附近